森保ジャパンよ、カギは「粘り」だ-。日本代表が初めてアジア杯を制した92年広島大会の決勝でゴールを決め「アジアの大砲」と称されたJ2大宮の高木琢也監督(51)が20日までに、自身の経験を語った。当たり前のように優勝が目標となり、当時とは立場が大きく変わった日本代表にもエールを送った。

 

「勝てて不思議な感じはあった」。高木監督は、日本にアジア杯初優勝をもたらす1発を決めた92年広島大会を、こう振り返った。Jリーグ開幕前年の自国開催とあり、宿舎にサポーターが押し寄せ、外に出られないほどの熱狂の中にいた。優勝へのプレッシャーは、サッカー人生で経験したことのないものだったという。それでも「アジアで日本が勝つというのは簡単じゃない」という意識があった。

というのも、日本は初出場した88年カタール大会で、1点も奪えずに1次リーグ(L)敗退を喫した。学生中心で編成されたチームで、国際Aマッチではなかった。メンバー入りしたが「すでに韓国は何回かW杯にも出ていて。とにかく運動量もパススピードも、すべてが違った」と当時を振り返る。

挑戦者の気持ちで臨んだ4年後の広島大会も1次Lから苦しんだ。最終第3戦のイラン戦でFWカズ(三浦知良)が残り3分でゴールを決めてようやく白星を手にした。重圧の中、無我夢中で走った末のタイトルだったからこそ、実感がなかった。

初優勝から26年。日本と他国の立場は入れ替わった。打倒・日本を掲げる相手をはね返すために、何が必要なのか。1つの考えがある。

「粘りですね」

立ち向かう立場だった自身の記憶をたどると、格上の相手に攻め込まれるのは当たり前のことと割り切れた。それよりも、多くない攻撃チャンスを体を張って防がれることが、精神的に最もこたえたという。

「攻撃が続くチームは、攻められたときにぽろっと点を取られることも多い。そこで『格下相手にそこまでやるか』くらいに粘られると、すごく嫌でした」。言葉には実感がこもった。

森保ジャパンは9日の1次L初戦でトルクメニスタンに先制を許した。プレスが甘くなったところで、強烈なミドルシュートをたたき込まれた。試合の立ち上がりにも早々にDFラインの裏をとられてピンチを迎えた。トルクメニスタン戦で出た課題こそ、相手の戦意を折るカギだと考える。

初優勝時のメンバーのうち、高木監督を含めてわずか3人だったマツダ所属の選手の1人が、森保監督だった。「いくら日本が、選手が成長したといっても、絶対に苦戦すると分かっているはず。いろんなものが見えていると思いますよ」。指揮官として、戦友の洞察力に期待を寄せた。

【岡崎悠利】