J2松本の元日本代表DF田中隼磨(32)が、3年前に亡くなった松田直樹さん(享年34)とともにJ1を目指す。昇格に王手をかけた松本は今日1日、アウェーで福岡と対戦。勝てば長野県から初のJ1クラブが誕生する。松本市出身の田中は今季、松田さんの思いを胸に故郷のチームに移籍。故人の目標だった「J1」へ、熱い思いでチームを引っ張るベテランは10月31日、チームメートとともに決戦の地、福岡入りした。

 決戦を控えて非公開で行われた練習でも、田中はチームを引っ張った。サイドMFとしてのプレーはもちろん、サポーターやメディアへの対応でも、チームを代表する。全国的に無名の選手が多い中で、元日本代表の存在感は抜群。地元のスター選手として、大勢の報道陣に思いを伝える。

 田中

 松本からJ1のクラブができるなんて、思いもしなかった。でも、今はそのチャンスがある。自分たちの手でJ1に上がれるんだから、幸せなこと。自分たちがやれることを徹底して、勝って決めたい。

 昨季は名古屋で全試合に出場したが、若返りの方針から契約満了で退団。J1からも複数のオファーがあったが、あえてJ2の松本移籍を決意した。故郷のクラブであることと同時に、尊敬し、仲も良かった横浜時代の先輩の松田さんがプレーしたクラブであることが決め手だった。

 田中

 地元だし、マツさんからも話は聞いていた。ここに来たのは運命。彼に呼ばれたのかも。松本の名を発信するとともに、マツさんの思いを伝えていくこともオレの大切な仕事。

 クラブから提示された背番号は松田さんの3。あの夏の急死以来、空き番となっていたものだ。クラブの期待、自分の役割、重い番号に田中の心も揺れた。

 田中

 群馬に行って、マツさんのお母さんとお姉さんに会った。背番号の話をした。着けてくれ、マツさんもそれを望んでいると背中を押された。自分の気持ちは固まっていたけれど、力強かった。彼の思いも背負って戦っている。

 Jのトップクラブから地方のJ2へ。環境の差は思った以上だった。専用の練習場もなく、練習着は自分で洗う。選手たちの意識も違った。反町監督は「隼磨はドロをかぶる覚悟で来ている」と頼もしげに言った。

 田中

 プレーのことなど選手に注文もする。怒ることもある。嫌われ役もやるよ。でも、それが仕事。オレしかできない。クラブが変わっていくために何でもやる覚悟はできている。

 福岡戦も松田さんとともに戦う。ユニホームの下には、いつも故人のアンダーシャツを着る。「チームをJ1に上げたい」という遺志を継ぐ田中が、故郷のチームをJ1へと導く。

 田中

 サッカーができることが幸せ。もうマツさんはできないんだから。墓参りはJ1に上がってからと思っていたけれど、言われるだろうな。『隼磨、これで終わりじゃないぞ。満足するんじゃねえ』ってね。クラブのため、サポーターのため、松本市のため、そしてマツさんのために。まだまだやることはある。

 自らの思いの丈を一気にはき出した。J1昇格は田中にとって、松田さんにとって、まだ夢の途中なのかもしれない。【荻島弘一】

 ◆田中隼磨(たなか・はゆま)1982年(昭57)7月31日、長野・松本市生まれ。中学卒業後に横浜Fユース入りし、合併により横浜ユースに移籍。2種登録選手として00年の天皇杯で公式戦デビュー。01年にトップ昇格し、東京Vへのレンタル移籍を経て横浜に戻り、09年に名古屋に移籍した。横浜と名古屋で主力としてJ1制覇に貢献。J1通算355試合15得点。日本代表でも国際Aマッチ1試合出場。家族は妻と2男1女。174センチ、64キロ。

 ◆松本山雅FC

 1965年(昭40)に山雅(やまが)サッカークラブとして創設。名称は選手が集まっていた市内の喫茶店「山雅」(75年閉店)が由来。75年に北信越リーグ発足とともに加入し、県リーグに落ちることなく活動した。04年にJ入りを目指しNPO法人ASP(アルウィンスポーツプロジェクト)を設立。05年に松本山雅FCに改称し、10年にJFL、12年にJ2へ昇格した。ホームタウンは松本市、塩尻市、山形村、安曇野市。スタジアムは松本平広域公園総合球技場(アルウィン、収容2万人)。