いきなりですが「ヘアドネーション」って、知っていますか? 高校時代は丸刈りで、今も耳に髪がかかると散髪する私にはちんぷんかんぷん。その意味を知るきっかけがフィギュアスケート女子の三原舞依(19=シスメックス)だった。

2位に入ったネーベルホルン杯から帰国した三原舞依(撮影・松本航)=2018年10月1日、関西空港
2位に入ったネーベルホルン杯から帰国した三原舞依(撮影・松本航)=2018年10月1日、関西空港

他競技に比べて取材機会が限られるフィギュアスケートでは、久しぶりに顔を合わせた選手へ大会の意気込みや、そこまでの練習の過程などを尋ねることが必然的に多くなる。その中で聞く機会が無く、春からずっと気になっていたのが三原の見慣れない姿だった。

6月、神戸市内で行われたアイスショー。髪をばっさりと切っていることに驚いたが、理由を聞くに至らず「五輪シーズンが終わって、心機一転かな?」などと考えていた。あれから約3カ月半が経過した10月1日。今季の国際大会初戦であるネーベルホルン杯(ドイツ・オーベルストドルフ)で2位に入り、関西空港に帰国した三原にようやく真相を聞くことができた。

「ヘアドネーションしました! 今はだいぶ伸びましたよ」

見た目からサラサラとしている髪は現在、肩にかかる程度のミディアムヘア。長い後ろ髪にハサミを入れたのは、4月末のことだった。

「ずっとやりたくて、31センチ切りました。でも31センチという長さが、なかなか難しくて。『もうできるかな』って思っても、(切った後に)すごくショートになる長さだったり…。ずっと定規で測っていたんですけれど、ちょうどオフシーズンにできる長さになったので、思い切ってバッサリといきました」

後からインターネットで詳しく調べてみた。「ヘアドネーション」とは脱毛症や乏毛症、小児ガンなどの治療で頭髪の悩みを抱える人たちへ、寄付された髪で作られたウィッグを贈る活動を言う。この春、甲南大に入学した三原は、数年前からそれを計画していた。

「14センチと31センチがあって、髪を伸ばしながら『もしかしたらできるかな』って思っていたんですが、31センチをどうしてもやりたかったんです。やっぱりウィッグを作る時に、短い髪の毛だとショートヘアしかできないので、ロングとか、ミディアムとかにもできるように。『少しでも役に立てたらな』って思ってやりました」

女子フリーを終え、ガッツポーズを見せる三原(撮影・河野匠)=2018年1月26日
女子フリーを終え、ガッツポーズを見せる三原(撮影・河野匠)=2018年1月26日

私が三原を取材してまだ2シーズンだが、言い訳することを好まない印象がある。ジュニアだった15年12月に「若年性特発性関節炎」という難病で入院。今も薬を飲み、病院へ通う。冬場は関節がこわばりやすいため、遠征時には多くの防寒着やカイロを常備する。

その状況を知るからこそ、17年11月のグランプリ(GP)シリーズ第3戦中国杯後に聞いた「言い訳を言った後に『だからできない』って思うのが自分の中ですごく嫌なんです。なので、『やる限りは全力でベストを尽くす』っていうのを大切にしています」という言葉が強く印象に残っている。練習が思うようにできなくても、それを出来が良くなかった試合の要因にすることは、まずない。

その三原の思いを踏まえて、控えめに聞いてみた。いつも家族、コーチ、友人、ファンへの感謝を口にする19歳は、「手を差し伸べてくれることのありがたさが分かるから…」と口にした私の目をしっかりと見て、こう答えた。

「1人の方の心を救えたら…じゃないですけれど、髪の毛で『ちょっとでも貢献できたらな』っていうのがあって。使ってもらえているかは分からないんですが『もし良かったら、使っていただけたらな』って思っています。やっぱりいろいろな方に支えてもらってきたので『その恩返しが誰かに届けばいいな』と思うんです。また伸ばして、もう1回やるつもりです。頑張ります」

曲との調和や表現が求められるフィギュアスケートでは、他競技以上に「髪」も自己表現の1つになる。その環境に身を置きながら、競技の枠を超えた大きな世界に目をやり「最初、切った後は『ポニーテールをやってみよう』と思ってもできなくて、ハーフアップしかできなかったんです。でも、髪の毛が乾くのが早いので、ちょっとうれしかったですよ」と穏やかに笑う姿が頼もしい。

2月の平昌五輪出場を逃し、悔しい思いを胸に22年北京五輪への第1歩を刻む18~19年シーズン。厳しい世界で戦う立場上、その「心」が結果に直結するとは限らない。それでも31センチの髪で作られたウィッグを受け取った人の笑顔が浮かぶ。空港を引き揚げるこちらの心も温かくなった、10分間の取材だった。【松本航】


 ◆松本航(まつもと・わたる)1991年(平3)3月17日、兵庫・宝塚市生まれ。兵庫・武庫荘総合高、大体大とラグビー部に所属。13年10月に大阪本社へ入社し、プロ野球阪神担当。15年11月から西日本の五輪競技を担当し、18年平昌五輪では主にフィギュアスケートとショートトラックを取材。