【ウォリック(英国)26日=岡崎悠利】ドカベン、見ててくれ-。ラグビーW杯イングランド大会を戦う日本代表のフランカー、リーチ・マイケル主将(26=東芝)の高校時代のチームメートで、ともに花園にも出場した河内祥平さん(27)が7日、仕事中の事故で亡くなった。母校はこの日、南北海道大会決勝で敗れ、北海道で最多となる16年連続16回目の花園行きはならなかった。“ドカベン”の愛称で親しまれた元プロップの戦友に、1つでも多くの勝利を届ける。

 開幕が迫る中、英国に訃報が届いた。河内さんは今月7日、札幌市内のビルで駐車場の解体工事中、転落事故で他界した。リーチが送った弔辞は告別式で読まれ、涙を誘った。河内さんの父晃さんは「祥平は(リーチが所属する)東芝の試合をよくテレビで見ていました。マイケルが祥平のことを思ってくれているのは、本当に光栄なことです」と涙をこらえて話した。

 母国ニュージーランドから1人で来日し、札幌山の手高(北海道)に入学したリーチは当時15歳だった。すし屋の屋根裏部屋を下宿に借りながら、「ニュージーランドではありえない」という毎日約3時間の練習をこなした。冬は雪が降る中でタックルし、全体練習後は積もった雪をかきわけながらジムに通った。高校はまさに「日本ラグビーに育てられた」と話すリーチの原点だ。その大切な思い出の中で、苦楽を共にした河内さんの存在は大事な支えだった。卒業後、リーチが北海道を訪ねると河内さんは必ず会いにきてくれた。

 W杯の開幕日(18日)には、英国にいるリーチへ高校時代の仲間から応援の寄せ書きが入った日の丸が届いていた。そこには、生前の河内さんが送ったメッセージもあった。

 「1TRY1万!!5TRY5万!!がんばってね!」

 19日、日本ラグビーの歴史を変えた南アフリカ戦。日本のロッカールームにその仲間が贈ってくれた国旗が貼られていた。リーチは日の丸に手を合わせ、勝利を誓い、グラウンドへ。勝利した翌20日、午後6時24分。札幌山の手高の佐藤監督のもとに、リーチから通話アプリ「LINE(ライン)」で連絡があった。

 「頑張ります!」

 「次は本当に頑張らないと!」

 2通の後には、河内さんのメッセージがアップされた写真が送られていた。

 札幌山の手高は花園行きを逃した。河内さんの早すぎる死に報いる優勝はならなかった。リーチは河内さんについて「いまは話したくない」とチームメートに漏らすだけ。

 リーチが河内さんの家族の元へ送った弔辞の最後には、こう書いてあった。 「いろいろ書くと、ドカベンの思い出がたくさん出てきて泣きそうです。札幌に帰ったらドカベンに会いに行きます」

 1つでも多くの勝利を、戦友のもとへ持ち帰る。急激に高まる期待とプレッシャー、そして悲しみを胸の奥にしまい、リーチは今日も一番乗りでグラウンドに立つ。亡き友の応援を糧に、10月3日のサモア戦にぶつかっていく。

 ◆リーチの高校時代 セントビーズ高(ニュージーランド)から04年に札幌山の手高に留学。1年でフランカーの定位置を獲得し、2、3年はNO8で3年連続花園に出場(2勝3敗)。3年時に高校日本代表入りした。卒業後、リーチは東海大に進み、同期は明大と朝日大に1人、国士舘大に5人、北海道内の大学に4人が進み競技を続けている。河内さんは主将だった塚原隆敬さんと札幌市内の調理製菓専門学校に進んだ。