19年9月20日開幕のラグビーW杯日本大会まで、明日24日であと1000日となる。15年W杯では歴史的な南アフリカ撃破でW杯24年ぶり勝利など3勝を挙げた日本代表。自国開催での飛躍が期待される中、今年10月20日に元日本代表監督・平尾誠二氏が53歳で死去した。ラグビー界を支えた平尾氏から受け継ぐべきものとは-。1学年後輩の平尾氏と共に戦った元日本代表・大八木淳史氏(55=芦屋学園中、高校長)に聞いた。

 天国で眠る平尾氏は、日本ラグビーの継続的な人気を願っていた。「W杯はゴールではなく、その後が大切だ」。1000日後にやってくる夢の祭典。戦友の無念を思う大八木氏もまた「W杯の結果も大事だが、息継ぎとして見るべき。ここからの1000日も慣習にとらわれず、変化を恐れない姿勢が大切」と提唱する。

 伏見工、同大、神戸製鋼、日本代表でチームメートとして、一緒にラグビーの未来を考えてきた。19年W杯に向けた大八木氏の視点にも独自性がある。

 「代表の実力は確実に上がっている。それにどう付加価値をつけるか。『五郎丸しかいない』じゃダメ。『日本代表』をブランド化していかないといけない」

 その一案が現所属企業、クラブチームから日本協会への、代表候補選手の“期間限定出向”だ。W杯まで協会の専属選手になれば、十分な代表活動時間を確保できる。CMやイベントなどを用いた魅力発信もスムーズになる。サッカー日本代表のように自国W杯後も愛されるチームにするためには、興味、愛着を根付かせる必要があると考える。

 思考の原点は平尾氏と築いた歴史だ。第1回W杯翌年の88年度。神戸製鋼のプレーイングマネジャーとなった平尾氏と大八木新副将は「スティーラーズ」の愛称をジャージー左胸に刺しゅうした。当時アマチュアだったラグビー界からは「ラグビーと仕事だけをやっていればいい」と反感を買ったが、地域住民との交流イベントなども始めた。94年度まで続く日本選手権7連覇の強さだけでなく、ラグビー界の枠を超えた「神鋼ブランド」を生みだした。

 プロ解禁となり、平尾氏と手がけた改革の大半は現在の常識になった。W杯まで1000日。大八木氏は「急激には変わらない」と理解しつつも「準備には継続性が必要」と訴える。さらに前に進む努力は、W杯以降の未来の下地にもなっていく。【松本航】

 ◆平尾誠二(ひらお・せいじ)1963年(昭38)1月21日、京都市生まれ。伏見工3年時に全国大会優勝。同大に進み大八木氏らと82~84年度に大学選手権3連覇。英国留学を経て86年に神戸製鋼へ入社し、日本選手権7連覇に貢献。87、91、95年W杯に出場し日本代表キャップ35。97年から00年まで日本代表監督。神戸製鋼GMなどを務め、胆管細胞がんと闘病中だった16年10月20日に53歳で死去。

 ◆大八木淳史(おおやぎ・あつし)1961年(昭36)8月15日、京都市生まれ。京都・伏見工から同大へ進学。大学選手権3連覇を含む計4度の学生日本一を経験。神戸製鋼では88~94年度に日本選手権7連覇。87、91年のW杯に出場し、日本代表30キャップ。12年から芦屋大学特任教授となり、14年から学校法人芦屋学園理事長。平尾氏死去の5日後となる今年10月25日から芦屋学園中、高の校長に専念している。

 ◆平尾氏と大八木氏のW杯 87年の第1回、91年の第2回大会にそろって出場。第1回は米国、イングランド、オーストラリアに3戦全敗で終えた。平尾氏が主将として臨んだ第2回はスコットランド、アイルランドに連敗発進も、共に先発したジンバブエ戦で52-8と歴史的なW杯初勝利を挙げた。