早朝の東北新幹線に身を委ねると大宮の前でもう、うとうとしていた。白石蔵王を過ぎて長いトンネルを抜けた感覚があって、聞き慣れた「間もなく、仙台です」のアナウンスが流れて、ぼんやり目が覚めた。

 田んぼも屋根も広瀬川の河原も白く、寝起きにはまぶしかった。12日の仙台は雪。舞うことはあっても、この時期に積もることは珍しい。駅に降り、特有のキリッとした空気に背筋が伸びた。そのまま楽天の本拠地・Koboパーク宮城へ向かった。

 朝と夜。誰もいない球場の施設が好きだ。静寂を独り占めすると嫌なことも忘れる。一塁ベンチのレカロシートに座ってグラウンドを見ると、銀世界が広がっていた。外野に数人の姿が見えた。東北で天然芝を管理するのは簡単でない。丁寧に雪をかいていた。

 夜までうんと冷えた。旧知の球団職員と落ち合い、地の味であるセリをつまみに話した。

 13年の日本シリーズが支えになっているという。困難に当たったとき、今でも映像を見て奮い立たせるという。7戦までもつれた選手権。延長勝ちで先に王手をかけた第5戦が忘れられない…で一致した。

 9回に追い付かれた楽天だったが、延長10回に銀次の適時打で勝ち越しに成功した。直後、星野監督がベンチを出た。のっしと三塁に向かい、10メートルほど歩いて「下がれ」と手招きした塁上に、藤田一也内野手(当時31)がいた。ふくらはぎに死球を受け出塁も、足を引きずりながらたどり着いた三塁ベースが限界点だった。

 自力で生還したかったのだろう。藤田は交代が不服そうだった。腰に手を当てて少しの間、立ち尽くした。2度目の手招きでやっと諦め、代走とすれ違うと泣いた。ベンチに腰掛けても涙が止まず、治療を受けるベンチ裏からもおえつが聞こえてきた。「彼は試合前のミーティングで『監督を男にするぞ!』と言った。悔しかったんだと思います」。アンドリュー・ジョーンズの適時内野安打で藤田の執念は報われた。「瞬間、ベンチ裏から『よっしゃ!』という叫び声が響いてきた。藤田です。泥くさい試合ですよね」。

 翌13日の午後、誰もいない室内練習場にふらりと藤田が来た。横浜1年目の彼を取材している。干支(えと)が一回りしても熱心さは変わらない。近年のトレードで最も成功した選手の1人だろう。

 たわいのない話の最後に言った。「楽天に来て、僕は素晴らしい経験をさせてもらっている。横浜を離れるとき、すごく寂しかったんですけど。自分のプラスになっている。1年でも長く。もう1回…頑張りたいんですよ」。

 澄んだ空気や静けさに余計な飾りは似合わず、自然と言葉をクリアにする。担当を離れて何年たっても、ふと本音が聞ける仙台の取材が好きだ。【宮下敬至】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「プロ野球番記者コラム」)

 ◆宮下敬至(みやした・たかし)99年入社。04年の秋から野球部。担当歴は横浜(現DeNA)-巨人-楽天-巨人。16年から遊軍。