立大監督時代の斎藤章児さん(2002年4月14日撮影)
立大監督時代の斎藤章児さん(2002年4月14日撮影)

立大と東農大二(群馬)で監督を務めた斎藤章児氏が5日、脳出血のため79歳で亡くなった。群馬・高崎市で営まれた通夜、告別式には、教え子や野球関係者など約900人が参列し、別れを惜しんだ。

斎藤監督との出会いは、90年6月。新人記者として北関東支局に配属された時だった。当時、アマ野球担当をしていた先輩記者から「群馬に転勤するなら、まずは斎藤さんにあいさつしなさい」と言われたからだ。

先輩記者は、85年の日航機墜落の年に甲子園出場した東農大二を取材。部員の父が事故に巻き込まれた同部に、社会部の記者まで殺到する異常事態となったが、斎藤監督は報道陣と真摯(しんし)に向き合い、本音で語ったという。人柄がピリピリしていた空気を和らげ、最終的に当該選手を報道陣から守ったという。

それだけ大きな方だから、何も分からない新人記者でも面倒を見てくれると思ったのだろう。先輩の見立ては正しかった。ルール解説や配球、変化球の握り方など、何でも聞いては、真剣に教えてもらった。

その後、東京本社でアマ野球担当となり、立大監督として取材した。2000年から4年間、上重(日本テレビアナウンサー)や多田野(前日本ハム)がおり、注目が高まっていた。この時もアクシデントはあったが、うわべを取り繕わず、正々堂々と対応し、最終的に問題を解決させたと思う。

9年前に頸髄(けいずい)損傷の事故に遭ってから、車いすで生活していた。それでも高校野球の評論活動は継続、野球界の発展に尽くした。心よりご冥福をお祈りします。【鳥谷越直子】