日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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最後に鵜飼忠男とゆっくりと会ったのは、高瀬川のせせらぎを歩いた京都・木屋町にある日本料理屋だった。阪神を率いて2年目の岡田彰布を陰で支える後援組織「京都岡田会」の発足にかかわった幹事長だった。

星野仙一の後継として就任した04年(平16)、周辺に「親身に岡田を応援する組織が必要ですわ」と声が上がったのを契機に誕生した。第1回会合から、政財界、医師医療、学術など多彩な分野の関係者が名を連ねた。

翌05年から京都大大学院医学研究科・特任教授になる本庶祐(ほんじょ・たすく)が会長に就いた。最先端医療の研究を続けた本庶は後に「ノーベル生理学・医学賞」を受賞。熱烈な虎党で、岡田ファンになった“世界のホンジョ”を担ぎ出したのも鵜飼らだ。

京都・山城高の野球部出身だった鵜飼は、5歳年上の先輩、吉田義男を慕った。京都が輩出した野球人に野村克也、衣笠祥雄ら大物がいたが「京都といえば吉田ですわ」と何度も聞かされた。

ただ次期監督を選任する阪神は“若手路線”にかじを切っていた。金本知憲、矢野燿大を擁立。岡田の名は浮かんでは消え、実現しなかった。その度ごとに鵜飼とは会った。

「阪神はどうしてオカではあきませんのやろ? なぁ、阪神を強くできるのは岡田と違いますのか」

ほとんど愚痴に終始したこともあったし、病床からも電話が入った。「もう少ししたら退院しますさかいにお会いしませんか」。今思えばなつかしい時間だった。

岡田が監督に返り咲いた後、23年1月24日に開催された「岡田会」は忘れることができない。京都が記録的な大雪で立ち往生し、あいさつに立った鵜飼が、とうとうと積年の思いを語り続けたからだ。

なかなか勝ちきれない阪神にもどかしい心境でいたのは、多忙を極めた本庶も同じだった。阪急阪神ホールディングス代表取締役会長グループCEO・角和夫らの前で本音を打ち明けた。

「疑いもなく角さんの中には岡田の名前がインプットされていたはずです。角さんも腹をくくったなと思いました」

真っ白の雪景色になった古都で、鵜飼と短い会話を交わした。「これ、なにか起きそうですね…」。その年、見事に18年ぶりの優勝を果たすが、拙者は決起集会になったあの日が“原点”になったと勝手に思い込んでいる。

しかし、武田病院グループ顧問の鵜飼は、残念ながら歓喜の瞬間を見届けることが出来なかった。23年5月7日死去。あれだけ執念をみせたのに、運命のいたずらを感じずにはいられなかった。

一周忌法要が営まれた先日、鵜飼の娘・園子は「夢だった優勝を見ることはできませんでしたが、きっと父も喜んでいると思います」ともらした。連覇を狙う岡田からの供花が寄り添った。天国で夢の続きを見守っていることだろう。(敬称略)