平凡な外野飛球だった。私は捕球を待たず、スコアブックに「9=右飛」と記入した。

その直後、ボールが都城(宮崎)の右翼手、隈崎正彦のグラブからこぼれ落ちた。両軍無得点で迎えた延長11回2死一塁。PL学園(大阪)の走者旗手浩二が、長駆サヨナラのホームを踏んだ。1-0。5万大観衆が見守った熱戦は唐突に暗転し、たちまちにして試合を終わらせた。

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◆84年春準決勝(4月3日=甲子園)


都城   000 000 000 00 =0

PL学園 000 000 000 01X=1

(延長11回)【都】●田口―矢野【P】田口、高松、○桑田―清水孝

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84年4月、センバツ準決勝の都城-PL学園戦、11回裏2死一塁、桑田の打球を隈崎が落球しサヨナラ負け
84年4月、センバツ準決勝の都城-PL学園戦、11回裏2死一塁、桑田の打球を隈崎が落球しサヨナラ負け

56回大会(84年)の準決勝だった。初出場の都城が甲子園19連勝中のPL学園に挑みかかった。互角に渡り合ったというのに、甲子園は非情だった。右飛は当時2年生の桑田真澄が放っていた。「ライトの人、かわいそうですね」と気遣った。隈崎は頭(こうべ)を垂れたまま、グラウンドから控え通路に戻った。

報道陣の質問にはしっかり答えた。「ここに当たったと思います」と、グラブの土手の部分を指さした。年明けに新調したばかり。「グラブのせいじゃないです。僕の技術が未熟だったんです。みんなに申し訳ないです」。自分を責めた。

涙を流したまま甲子園を去ってから1カ月、私は5月になって都城を訪れた。デスクから「あいつ今何してる」と聞かれて答えられず、出張に出た。グラウンドに練習する姿は見つけたものの、個人取材は許されなかった。夜、自宅を訪ねた。突然の訪問にも、姉の幸枝さんが丁寧に応対してくれた。休まず練習に参加していること、激励の手紙が届いていることなどを話してくれた。

都城のエースは、のちにドラフト1位で南海入りする田口竜二だった。春、落球に泣いた186センチの大型左腕は、夏も力投した。宮崎大会5試合を1人で投げ抜いた。隈崎はレギュラー中ただ1人の無安打。それでも川野昭喜監督は試合に出し続けた。周りの支えがあって、汚名返上の場がもたらされた。

84年8月、甲子園の都城-足利工戦、4回に隈崎は本塁打を放ち笑顔で生還
84年8月、甲子園の都城-足利工戦、4回に隈崎は本塁打を放ち笑顔で生還

迎えた夏の甲子園初戦。隈崎がバットで借りを返した。足利工戦の4回1死、初球の速球を左翼ラッキーゾーンに放り込んだ。一塁を回ったところで右手を突き上げた。「あの事件がこれで帳消しになったとは思わない。でも野球を続けてよかった」。3つの飛球は両手で確実に捕った。初めて見た笑顔だった。

日常を取り戻そうとした隈崎に横やりを入れたかもしれない私も、1発にほっとした。夏の大会前、幸枝さん宛てに弊社のスコアブックを送った記憶がある。自宅を訪ねた際、都城の試合には必ず駆けつけるという話を聞いた。弟の本塁打を書き込んだろうか。

スコアブックは、36年前の試合を再現してくれる。ただし記入する際はボールから目を離さず、完全捕球を確認しないと。熱戦はそんなことも教えてくれた。【米谷輝昭】

都城の84年センバツ準決勝と同年夏の甲子園1回戦の成績
都城の84年センバツ準決勝と同年夏の甲子園1回戦の成績