藤本敦士にはアテネ・オリンピック(五輪)から帰国後、胸を痛めた記憶がある。
日本代表はオーストラリアとの準決勝に惜敗した翌日、カナダとの3位決定戦に11-2で大勝。銅メダルを手に解散した後も、監督代行として指揮を執った中畑清ヘッドコーチへの批判が収まらなかったのだ。
「僕が直接言われたわけじゃないけど、そういうこともあったみたいです」
0-1で敗れたオーストラリア戦の7回裏2死一、三塁、変則左腕ジェフ・ウィリアムスが登場した場面。なぜ藤本に右の代打を送らなかったのか-。悲願の金メダルを逃したこともあり、厳しい指摘は決して少なくなかった。
「僕が打っていれば、中畑さんは何も言われなかった。あそこで行かせてくれた中畑さんになんとか恩返しをしないといけない」
胸に宿した感情は36歳シーズンの13年にヤクルトで現役生活を終えるまで、モチベーションとなって心と体を支え続けた。
アテネでは全9試合にフル出場した。予選リーグのオランダ戦ではアーチもかけた。ただ、本人にとっては目に見える数字以上に得るモノは多かったという。
日本代表に招集された直後は、自分がレギュラー起用されることなど想像もしていなかった。
「ショートとセカンドのどっちを守りたい? オレはどっちでもいいぞ」
「いえいえ、めっそうもございません! 僕、試合に出るんですか?」
7歳上の主将、宮本慎也とのやりとりでようやく立ち位置を把握するぐらいの感覚。それが金メダルという想像を絶する重圧と闘うにつれて変化していった。
「ピリピリ感がすごかった。1試合1試合、まるで何十試合を戦ったかのような疲れが来て…。早くこの場から逃げ去りたいという気持ちも正直あったぐらい、すごい雰囲気でした。ノリさん(中村紀洋)が送りバントをしたり、一流選手たちは常に全力。みんながプレーに一喜一憂していて、ブルペンからも大きな声が聞こえてきて…。すごく胸が熱くなる大会でした」
全身全霊を尽くしたアテネの夏はその後、野球人生を全うする上でかけがえのない財産となった。
「金メダルを取れなかった苦い思い出でもありますけど、あそこまで熱くなれたのは僕の野球人生の中で5本の指に入る。まだこれだけ野球に熱くなれるんやっていうのを気づかせてくれた舞台でした」
結局、ウィリアムスとの阪神対決は宝刀スライダーの連発に屈した。「『もし対戦したら真っすぐしか投げない』と言っていたのに、スライダーばかり投げてくるんやから(笑い)。忘れたい思い出です」。そう冗談めかす藤本の表情は、どこか晴れやかだった。【佐井陽介】(敬称略、この項終わり)
◆藤本敦士(ふじもと・あつし)1977年(昭52)10月4日、兵庫県生まれ。育英高3年春に甲子園出場。00年ドラフト7位で阪神入団。09年オフにヤクルトへFA移籍。13年限りで引退。通算成績は1001試合619安打、14本塁打、208打点、打率2割5分1厘。