「育成の巨人」と呼ばれ始めた00年代後半。支配下登録へ、あと1歩まで近づきながら、4度のケガに泣き、ユニホームに別れを告げた選手がいる。07年育成ドラフト1位で入団し、11年限りで引退した籾山幸徳さん(36)は現在、主に生命保険などを取り扱う「NoriSuke」で社長を務める。チャレンジを続ける根底にあるのは、野球への思いとたくさんの人との出会いだった。

09年、イースタン・リーグに出場する巨人時代の籾山さん
09年、イースタン・リーグに出場する巨人時代の籾山さん

野球を愛し、今もなお、籾山さんは白球へのいちずな思いを抱く。天理高では3年夏に甲子園に出場。立命大では強打の内野手として、主軸を任され、主将を務めた4年秋にはベストナインを獲得し、07年育成ドラフト1位で巨人に入団した。高校、大学では日本一を、プロでは支配下を目指し、泥にまみれた。

「小学生の頃に見た甲子園に憧れ、夢を持った。たくさんの悔し涙とめったに流すことのないうれし涙を流した。目標までのプロセスから結果、次への課題、プロセスを経て、また結果…。ほとんどが野球から学んだことで、そのメンタリティーやマインドは今も生きています」

現役引退から10年、現在は「NoriSuke」を起業。主に生命保険などを取り扱いながら、社長自ら営業に回り、1人で全ての業務をこなす。

現役時代は4度のケガに泣き、志半ばでユニホームを脱いだ。1年目の春季キャンプ中に右肩の血行障害。2年目は6月のイースタン・リーグの守備で左手中指を骨折し、8月には死球で右手の尺骨を骨折した。少ないチャンスながら、4月までに2本塁打を放ち、夢の支配下登録が見え始めた時に不運に襲われた。

「『もうちょっとやぞ』と周りからも言われて、チャンスやなと思った時にケガをして。でも、今思えば、うまくいきすぎてたというか、いってこいやったんかなと。ケガがなければ、というのは言い訳だし、そういう思いはないです」

引退を決断したのも、ケガだった。4年目の11年7月の試合で死球を受け、左手小指を骨折。「89%くらい、今年でクビだと覚悟した」。リハビリを経て、シーズン終盤に実戦復帰。10月16日、現役最後の試合となるプロアマ交流戦の佐久コスモスターズ戦を迎えた。試合前夜、母久美子さんに1本の電話をかけた。

「オレの最後の試合になるかもしれへんから、もし来れるんやったら、見に来てや」

「何でそんなこと言うねん」と涙声で返された。「やってるオレが一番わかるねん」と静かに言った。母は大阪から深夜に車を走らせ、川崎市のジャイアンツ球場に駆けつけてくれた。「最後、何とかいいところを見せたろう」と誓った7回の最終打席。フルスイングで、左翼にアーチをかけた。

「1軍で活躍する姿は見せられなかったですけど、自分なりの恩返しができたかなと。ずっと一番近くで応援してくれたのが母親。最後の1本を見せられたのは良かったです」

半月後の11月1日、戦力外通告を受け、現役引退を決断した。第2の人生を模索する中、球団からオファーを受けたのは、子供たちを指導するジャイアンツアカデミーのコーチだった。(つづく)【久保賢吾】

◆籾山幸徳(もみやま・ゆきのり)1985年(昭60)4月10日、大阪・八尾市生まれ。天理、立命大を経て、07年育成ドラフト1位で巨人に入団。11年限りで引退し、ジャイアンツアカデミーコーチに就任。14年7月にプルデンシャル生命保険株式会社に入社。19年末に退社し、「NoriSuke」を起業した。現在は高槻中央ボーイズで監督を務める。家族は夫人と1男。現役時代は179センチ、80キロ。右投げ右打ち。