私の担当チーム、花咲徳栄が優勝した。埼玉県勢としては夏の甲子園初制覇となった。いろんな方から「おめでとう」と電話やメールをいただいた。私が優勝したわけでもないのに。でも、ありがたいことだ。家族や親戚、友人まで私の担当チームを応援してくれていた。昔、プロ野球を担当していた時もそう。巨人ファンでもないのに、私が巨人を担当していたときは巨人、西武担当なら西武を応援してくれた。最後まで体調を崩すこともなく無事完走できた。お世話になった方々に感謝したい。

 さて、花咲徳栄のことを書きたい。なぜ優勝できたかというと岩井隆監督(47)の手腕が大きいと思う。この監督さん、前々から優秀な指導者だとは思っていた。6月に埼玉担当を命ぜられた時には一度、ゆっっくり話を聞いてみたいと思った。花咲徳栄には事前取材で3度おじゃました。しかし、監督さんは多忙らしくなかなか1対1で取材するチャンスがなかった。そうこうしているうちに埼玉大会で優勝。甲子園出場が決まった。もちろん試合後は必ず囲み取材で話をうかがったが、選手の取材もしなければならずゆっくりと話を聞くことはできなかった。

 甲子園入り後の8月6日。開会式リハーサル後にチームは鳴尾浜臨海公園球場で練習をした。私も駆けつけたが公園内に入ると偶然岩井監督とバッタリと出くわした。天気の話やらなにやらあいさつがわりにすると、選手のウオーミングアップをながめながら木陰のベンチに座り約15分ほど初めてお話することができたのだ。

 自分の生い立ちからチーム作りまで、監督さんは丁寧に話してくれた。

 川口市で生まれ、地元埼玉の公立高校に進学しようとしたが体が小さいことを理由に断られたという。「もう野球はやめよう」と荒れていたある日、同級生が創価高校(西東京)の練習に参加するという。そこに付き添いで行った。そこで出会ったのが創価高校の監督をしていた稲垣人司氏だった。数々のプロ野球選手を育てた名監督である。小柄な岩井少年に稲垣氏は「誰が本塁を踏んでも1点は1点。180センチの選手が踏んだら2点なのか」と話してくれた。これに感銘した岩井少年は「この人に付いていく」と覚悟を決め、必死に受験勉強を始めた。ところがその後創価高校で不祥事が発覚。稲垣氏は監督を辞め岩井少年は再びどん底に突き落とされる。それでも年末に稲垣氏が桐光学園(神奈川)の監督をすることが決まり、岩井少年は同校に進学することを決めた。

 桐光学園で稲垣氏の野球理論を吸収。同氏は広島商の出身で機動力を使った細かい野球が得意だった。さらに創価高時代には小野(元近鉄、ドラフト1位)らを育てるなど投手作りの名人でもあった。

 高校時代は内野手として活躍も甲子園には出られず。「Y校(横浜商)や桐蔭学園が強かった時代」と岩井監督はふり返った。

 卒業後、東北福祉大に進学。在学中に花咲徳栄の監督に就任していた稲垣氏から「教職を取っておけ」と言われ教員免許を取得。卒業すると22歳で花咲徳栄の教員、そして野球部のコーチになった。そして00年、練習試合中に稲垣氏が倒れ帰らぬ人に。01年から岩井コーチが監督に昇格。今日に至った。

 岩井監督は自身がそうだったように小柄な選手を重用する。

 「大砲だけでは戦争は勝てない。接近戦だってありますから」

 攻守で大活躍した2番打者の千丸剛主将は身長167センチ。彼は「監督さんからは体が小さいんだから常に頭を使って野球をしろと言われています」と話す。岩井監督を尊敬し将来は指導者を目指す。

 準決勝で決勝の右越え適時二塁打を放った高井悠太郎内野手も169センチ。中学3年時は150センチ台。同僚のT記者がアルプス席にいた高井選手の父隆行さんに聞いてきてくれた話では「背が低い高いは関係ない。私も小さな内野手だった。ウチが育てますから」と言ってくれ息子を花咲徳栄に預けようと決めたという。

 ラッキーストライクの煙をくゆらせながら監督さんはしみじみと言った。

 「もし稲垣さんに出会わなかったらどうなっていたか。今ごろ西川口かどこかで働いていたかなあ。あの人との出会いが僕のすべて」

 それにしても見事な戦いぶりだった。全6試合で先攻を取り、2桁安打を放ち、9点以上を奪った。投手起用もそう。「先発綱脇-リリーフ清水」にこだわって6連勝した。出場メンバーを見ると投手が入る8番以外は先発メンバーが全イニングフル出場。よくけが人や故障者が出なかったと今さらながら驚く。まるで精密機械のように確実に淡々と勝利をつかんでいった。他のチームが試合を重ねるたびに疲弊していくのとは対照的に花咲徳栄だけはまだまだ余力も感じられた。

 優勝の瞬間はグラウンド取材に向かうネット裏最前列で見た。マウンド上で歓喜のナインの姿が一瞬止まったか、スローモーションを見ているかのようにゆっくりと見えた。美しい光景だった。

 グラウンド取材を終えスタンド下通路に戻るとM新聞N記者と目が合った。どこか誇らしげな笑顔だった。新人記者の彼女は埼玉大会からずっと花咲徳栄を追いかけてきた。甲子園では全6試合をアルプス席で取材。応援団や学校関係者、選手の家族を取材しながら試合を見てきた。最後は世話になったお礼も兼ねて「皆さんのことが大好きです!」と絶叫してアルプスから引き揚げてきたという。入社1年目で日本一のチームを担当できた。彼女にとって一生忘れられない夏になったことだろう。

 【注】N記者のことはこの日記や埼玉放浪記でさんざんいじってきましたが、彼女は京都大学卒業の才媛。優勝翌日、M新聞の社会面に素晴らしい優勝記事が掲載されていました。

 私も甲子園の優勝原稿は32年目で初めて書いた。すでに陽は落ち、誰もいなくなったスタンド内にある第2記者席。記事を書きながらこの2カ月半をふり返った。6月に埼玉担当を命じられ、7月の埼玉大会、8月の甲子園。つらい出来事もあったが何とかやり切った。「じぶん史上、最高に長かった夏」がようやく終わった。