人の話を聞いて、良いものは貪欲に取り入れる。積極性とフットワークの軽さが甲子園への道を切り開いた。

帯広農が39年ぶりに夏の甲子園に出場する。南北北海道大会を公立校が制すのは17年北大会を制した滝川西以来4年ぶり。率いる就任6年目の前田康晴監督(45)は大麻高時代、甲子園どころか3年間、北海道大会すら出たことがなかった。「高校野球の監督をやってみたい」という思いで酪農学園大を卒業後、初任地の帯広農に赴任も、1年目は馬術部顧問だった。

2年目から野球部の第3顧問に。ここが高校野球指導に携わった出発点だ。当時監督を務めていた金子元(はじめ)氏(63=現黒松内小支援員)の存在が大きかったという。前田監督は「自分が野球のことを何も知らないことを痛感した。気付かせてくれたのが金子先生。もっと勉強しなきゃと思った。僕の考え方の基盤になっている」。金子元監督は長万部高時代、甲子園には縁がなかったが卒業後、大学野球の強豪日体大に進学し、全国から集まってくる選手にまじり、ひたむきに勉強。野手のポジショニングや、投手や捕手のしぐさから、相手の心理を予測して次の一手を考える緻密さに、前田監督は刺激を受けたという。

その後、金子元監督は札幌新琴似工に転任し、前田監督が倶知安農に転任となって以降も交流は続く。放課後に「金子先生に見てもらいたい」と選手を連れて倶知安農から約90キロ離れた札幌まで、練習に出向いたこともあった。不思議な縁で、その後、金子元監督が同じ町内にある倶知安に転任になる。同元監督は「週に1回ぐらいは飲みながら、いろんな話をしましたね。熱心で勉強家。『今こんな考えなんですけど、先生どう思います』って。倶知安農は人数も少なかったので、よく一緒に合同練習しましたよ」と振り返る。

前田監督が毎年つくるチーム方針がある。スローガンは新チームごとに変えるが、軸となるモットーは変わらない。<1>徹底(約束・チームワーク)と感性(自由・創造・状況判断能力)を融合させた野球<2>最後まで絶対に負けない、あきらめない強い気持ちを持ったチーム<3>周囲から応援されるチーム<4>野球を通して社会で活躍する人間を形成できるチーム。「これは金子先生の野球を踏襲しています」。指導者として最初の出会いが、今でもベースになっている。

倶知安農監督7年目の10年秋、部員1人になったことがあった。郡部の公立農業高校。急激に生徒が増える可能性は極めて少ない。「これまでか」。休部目前の状態だったが、翌11年春に9人の1年生が入部。徹底して鍛え上げ、同年夏は10人で夏7年ぶりの単独1勝を挙げた。「弱いチームは練習しかないと、ひたすらやらせた。死ぬほど素振りもさせた。よしあしは分からないが粘り強くなった。でも、それだけじゃ、その上にいけないことも分かった」。同じ小樽地区で甲子園10度出場の強豪北照には、いつも5回コールド負けだった。

16年春に帯広農に戻り、同年秋に監督就任。それまで監督だった大久保聡彦現部長(59)は、前回帯広農に赴任していたときから、一緒に指導に携わってきた間柄だった。「大久保先生のことも知っていたし当然、金子先生のときのように、みんな礼儀正しく基礎もしっかりしていて。大久保先生がいたことで私も自由にやらせてもらえたし、勝負するぞと思わせてくれる環境だった」。82年夏に一度、北北海道大会を制している古豪。北海道では比較的人口も多い帯広市内の高校で、生徒数も多い分、選手も集まりやすい。そして後ろで見守ってくれる先輩指導者、大久保部長の存在。おぼろげではあるが、少しずつ、聖地を目指せる素地が見えてきた。

就任2年目の17年秋に監督として初めて道大会に進出も、初戦で北海道栄に0-4敗退。4年目の19年4月、知人からの誘いで、全国で人材育成セミナーなどを請け負う吉井雅之氏(62)の講演会に野球部が出席することになった。話を聞くと、選手育成に必要な要素が詰まっていた。独自のノウハウで、成功するための習慣を形成しながら、緊迫した場面でも状況に応じ的確な判断、プレーができるように落とし込んでいく。「倶知安農のとき、私自身がいつも怒鳴ってばかりだったので、すぐ怒らないようにと、自分へのメンタルトレーニングという意味で勉強してみたのですが、そのときは何かつまらなくて。でも、人間力を上げてくれるような吉井さんの考え方はわかりやすく、高校生に合うのではと思いました」。6月に同野球部単独でセミナーを開いてもらいメンタル強化。その夏、初めて北北海道大会進出を果たした(初戦でクラークに1-8敗退)。

その後も吉井氏のセミナーを継続。月1回程度実施し、同年秋には全道4強で20年センバツ21世紀枠選出。コロナ禍で中止も、代替で開催された甲子園交流試合に招かれ、高崎健康福祉大高崎(群馬)を4-1で下し、聖地1勝を挙げた。同校が創立100周年で、19年NHK連続ドラマ小説のモデルになったということもあり「なつぞら旋風」と話題になった。人間力を磨くプロとの出会いも、躍進の一助となった。

新たな取り組みを始め3年目の今夏、吉井氏によるセミナーの一環で、支えてくれる人たちを喜ばせようという意味で「他喜力」強化を課題に加えた。その取り組みの1つとして、北大会前には吉井氏と前田監督は部員に「母親の手を触ってくるように。どれだけの苦労をしているか分かるはず」と指示を出した。西川健生三塁手(3年)は「母の手は、すごく硬かった。なんとしても活躍して恩返ししなきゃと思った」と振り返った。心を磨くことで、練習量だけでは届かなかった夏の聖地を、ついに、たぐり寄せた。

前田監督は言う。「自分は大したことない。ただ、人との縁に恵まれている」。7年ほど前には、菊池雄星、大谷翔平を育てた花巻東・佐々木洋監督(45)の講習会に出向き、大企業の経営者や組織のトップが購読する人間学を探究する「致知(ちち)」を読んでいるという話を聞いた。すぐに購読を始めた。「すごい選手を育てた指導者が読んでいると聞いて興味を持った。内容は難しいです。でも大事だなというところを読んだりして。甲子園だけがすべてじゃないので」。見て、聞いて、読んで、足を運んで、何でもやって試してみる。そんな地道なところから、前田監督の聖地への道が、切り開かれたのかもしれない。

近年、北海道高校球界では、甲子園経験校のOBが指導者になり強さを引き継ぐという例は多い。だが、前田監督のように、甲子園出場歴のない高校を卒業し、その後、公立校を甲子園に導いた指導者となると、極めて珍しい。19年に旅立った砂川北、鵡川元監督の佐藤茂富氏(岩見沢東高OB)や、滝川西を春夏3度甲子園に導いた高石克美氏(68、美唄東高OB)、硬式野球未経験ながら母校旭川工を12年まで計5度、甲子園に導いた佐藤桂一氏(64)らが有名だが、やはり公立校ならではハンディーはあり、レアケースだ。

前田監督は帯広農第3顧問として野球部指導を始めて22年目の昨春、21世紀枠でセンバツ切符をつかみ、23年目の今夏、初めて勝って甲子園出場を決めた。馬術部顧問に始まり、部員1人での休部危機、地区での惨敗、コロナ禍でのセンバツ中止と、道のりは決して平たんではなかった。失敗もたくさん重ねてきたが、とにかく何でもトライしてきたからこそ、得たものは多い。高校では大豆、小豆などの育て方を指導する農業科学科教員。人と野菜は違うが、どちらも常に変化を逃さず、状況に応じ手をかけていくことで、しっかり育つ。苦境を肥やしに、ひたむきに人脈を耕し、小さな芽を丁寧に育て上げ聖地にたどり着いた前田監督の、今後のチームづくりに注目したい。【永野高輔】

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