今季限りで現役を引退した巨人山口鉄也投手(35)は、育成選手制度の1期生で夢をつかんだ。06年(平18)からのプロ13年間で642試合に登板。9年連続60試合登板のプロ野球記録を樹立した。「育成」は強化のキーワードとなり、今年の日本シリーズでMVPを獲得したソフトバンク甲斐も育成出身で注目された。平成後期に先駆者となった左腕の歩みを振り返る。

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登板数は「642試合です」と即答できた。ただ、思い出の試合を聞かれても「う~ん」と言葉に詰まった。山口は、642試合に優劣をつけることはできなかった。

9年連続60試合登板というプロ野球記録を打ち立てた。07年(平19)5月9日の初勝利は、阪神鳥谷敬から空振り三振を奪ってつかんだ。金本知憲には内角へのシュートを徹底、最も苦手な投手として名前を挙げられた。2軍投手コーチの小谷正勝から授かった「左打者が嫌がる投手になれ」を実践した13年間。その足跡は名球会に値する-総会で議論になったこともある。

「登板する前は不安で不安で。いつも『投げたくないな』と思っていました。でも、名前がコールされた瞬間にスイッチが入った。乱闘になっても別に…どんな場面でも来いと思えたんです」

高3の夏、1度は野球をあきらめた。縁がつながって舞台に立てた。妥協は許されなかったし、開き直れた。「毎試合、これが最後かもしれないと。腕が飛んでもいいくらいの気持ちで投げています」。1軍デビュー時の言葉にもウソはつけなかった。

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だから潔かった。5歳の長男に引退を伝えると、涙を流しながら拒まれた。「なんで?」と聞くと「(野球選手は)かっこいいから」と言われた。ここ数年、言葉で表現するのは難しい左肩の痛みがあった。ただ、注射を打てば和らいだ。だましだましやれば、まだ投げられたかもしれない。周囲の誰もが抱く未練に対し、即座に首を振った。

「そんなに甘い世界じゃないです。それに、僕はリリーフ。そんな選手が投げているのは、先発やつないでくれた他の投手に失礼じゃないですか」

平成の後期、2度のリーグ3連覇を果たした巨人の中枢に君臨し「育成の星」と呼ばれた。この制度に意味づけをし、プロを夢見る青年に希望を与えた功績は計り知れない。ただ育成選手制度は、1期生の山口が入団した06年の当時から様変わりした。巨人には今季の開幕時、25人もの育成選手が所属した。今、何を思うか。

「何というか、3桁の背番号が普通なんですよね。みんな普通にやっている感じがします。今の環境は当たり前じゃないんです。自分も、小谷さんの言葉がなければ終わっていたかもしれません。もともとは、3年間しか期間がない制度。いつ気づけるか。それに…どんなことにも永遠ってないんだなと。引退を決断して、あらためて思いました。だから、その時その時を一生懸命にやらないと」

山口の言葉にはあるべき育成の姿だけでなく、あるべき野球人の姿も込められていた。(敬称略=この項おわり)【宮下敬至、久保賢吾】