甲子園で活躍し「マー君」の愛称で全国区となった田中は、2006年(平18)ドラフトで日本ハム、オリックス、楽天、横浜(現DeNA)の4球団から1位指名を受けた。

抽選の結果、楽天入りしたが、他球団に入っていれば違う道が待っていた可能性もある。大矢明彦監督が率いる当時の横浜は、田中を捕手として評価していたというウワサも聞こえてきた。「捕手をやっていたら(プロでの活躍は)無理だったでしょう。だって『もう打撃はいいや』という感じでしたから」。

捕手への未練は、まったくなかった。ただ入団した楽天は、球史に残る名捕手、野村克也が指揮を執っていた。ヤクルト監督時代に「ID野球」を開花させた知将から、プロ野球人としての基盤を学んだ。

「一番野球のことを知っていらっしゃる方。18歳の僕なんか、そりゃあ…直立不動でした。投げ終わったら、ベンチで監督の横に座って、その日の投球のことをいろいろと話していただきました」

当時72歳の野村にすれば孫のような存在。口うるさいイメージがある一方で、怒鳴られたり、こき下ろされたような経験は皆無だった。

投球の基本だけは徹底的にたたき込まれた。

「よく言われたのが、原点能力。『投球で困ったら外角低めに投げろ』と常に言われてました。データもそうですが、打者心理とか、いろいろと教わりました。ミーティングも長かったですが、ノートを取ってました。カウント別とか」

捕手がルーツの田中は「ノムラの考え」をスポンジが水を吸い込むように吸収した。元々、細かい配球を考えることが得意で、プロで生き残っていくうえで必要であることと理解していた。

プロ1年目の開幕から先発ローテーション入りを果たした。のちに野村は「先発が岩隈しかいなかった」と苦しいチーム事情を明かしたが、18歳の潜在能力をいち早く見抜き、我慢強く起用したことで大きく飛躍する。プロ4戦目となる07年4月18日、ソフトバンク戦で初完投初勝利。持ち前の学習能力を生かし、順調に白星を重ねた。打ち込まれてKOされても、打線が盛り返し、黒星を消した。あまりに負けない姿を、野村は「マー君、神の子、不思議な子」と評した。

海を渡った今でも、受け継いだ教えを忘れていない。ただ「原点能力」には、少し異論を感じることもある。「まあ、こっち(メジャー)では外角低めでも打たれますから」と笑った。

プロの入り口で、知将から投球の基礎をたたき込まれた。その後、闘将からプロとしての「魂」を伝承することになる。10年オフ、星野仙一が監督に就任した。(つづく)【四竈衛】