平成の野球を語る上で、最重要人物が松井秀喜(44)だ。巨人の4番、球界の将来を担う逸材と期待され1993年(平5)にプロデビュー。長嶋茂雄監督から熱血指導を受け、日本を代表するスラッガーに成長した。03年からメジャーの名門ヤンキースの主軸として活躍。09年ワールドシリーズではMVPに輝き、世界一に貢献した。時代をけん引した強打者は今、何を考え、どこへ向かうのか-。新時代を前にした思いを探る。

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1992年(平4)ドラフトで、松井は4球団が競合した末、巨人から1位指名を受けた。クジを引き、サムアップする長嶋茂雄監督(巨人終身名誉監督)の満面の笑みは、野球ファンのだれもが記憶しているに違いない。その後ヤンキース入りし、名将ジョー・トーリ監督のもとで盟主の「王道」を学ぶ。日米両国の恩師から、どんな影響を受けたのだろうか。

「長嶋監督とトーリ監督に関しては、2人との出会いがなければ、どんな野球人生を送っていたのかなと思います。ヤンキースに来た時にしても、ジョー・トーリでなければ、どうなっていたのかなと思います」

長嶋とは東京、遠征先で昼夜を問わず、マンツーマンで素振りを繰り返し、打撃の礎を築いた。2人だけの空間では、技術だけでなく、球界の主砲としての精神、魂を引き継いだ。

「あまり言葉はないんですよね。監督は常にファン(最優先)ですから。ファンのことしか考えてないんです。ジャイアンツが勝つことよりも、ファンのこと。あの姿勢は、普通の監督はできない。長嶋茂雄しかできないです。『10・8』(04年、中日との優勝決定戦)をあれだけ楽しめるのは、監督しかいないです」

ヤンキースで出会ったトーリは、感覚派と言われた長嶋とは、ある意味で正反対の指導者だった。常に穏やかな口調で、どんな相手とも諭すようにコミュニケーションを重要視した。

「トーリはその人間の本質というか、どういう人間なのかをしっかりと見つめて、徹底的に話す人。あれだけのスター軍団をまとめ上げるためには、そこまでやらなくちゃいけないんだと感じました。自分の場合、結果が出なかった時期もありましたけど、トーリは『選手として一番扱いやすいのはヒデキだ』と言ってくれたんです。技術ではなく、人間的な感じで、近いものを感じられたんだろうと。お互いに感じられて幸せでした」

キャンプ、公式戦と試合を重ねるたびに、トーリは松井の真摯(しんし)な姿勢に主軸の資質を見いだした。ジーター、ポサダらと変わらない敬意を払った。

「普段のプレー、自分を見て、感じてくれた、それでグラウンドでの信頼関係につながったのは、本当に良かったと思います。トーリが監督でいる以上、自分が結果が出ない時があるだろうけど、そういう心配はまったくしないでいいかなと思っていました」

性格、言動とも対照的ながら、2人の恩師の姿が心の中で少しずつ重なり合ってきた。

「長嶋さんとトーリは、自分の中での基本。グラウンド内だけではなく、人間性、考え方、チームをどうマネジメントするか。作戦、采配ではなく、そういうところが基本になるのかと思います。プレーボールがかかるまでどうあるべきか、というのは、自分の基本のような気がします」

14年には、臨時コーチとして巨人の宮崎キャンプ、ヤンキースのタンパでのキャンプに足を運ぶようになった。引退後、家族との時間で充電した松井が、少しずつ指導者としての歩みを始める。(敬称略=つづく)【四竈衛】

04年5月、トーリ監督(左)から前年のチャンピオンリングを手渡され笑顔を見せるヤンキース松井
04年5月、トーリ監督(左)から前年のチャンピオンリングを手渡され笑顔を見せるヤンキース松井