日本人選手がメジャーで活躍するのが当たり前になった平成時代だが、そこに至るには先人たちの苦労があった。通訳や代理人として日米で多くの選手をサポートし、2007年(平19)に手術で男性から女性へ生まれ変わったコウタ(56=本名・石島浩太)。女優、ギタリストとしても活動する彼女の波乱の人生と日米の野球史を振り返る。

  ◇   ◇   ◇  

コウタは、パーソンズ美術大学3年時に電通ヤング・アンド・ルビカム(電通と米企業の合弁会社)からスカウトされ、大学を中退して入社した。

ニューヨークで働き始めた。当時の電通は世界中にオフィスを持っていたが、コピーライターは現地の人間。日本人スタッフと意思疎通がままならないこともあった。アートを理解し、完璧なバイリンガルのコウタは、そういう問題を解消する“次世代の社員”だった。

ミキモトとキヤノンの広告を担当していた時、その女性と出会った。「彼女を見た瞬間、時が止まったようでした」。カメラアシスタントとして現場を訪れていたのが最愛の人スーザン。2人はすぐ恋に落ち、結婚を決めた。

「みんなに認識してほしいのは、LGBTQ(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、ジェンダークィア=男性でも女性でもない人々)でも愛の形は千差万別ということ。例えば男性から女性になった人が、必ずしも男性が好きとは限らないんです。幼い頃から自分を女性だと思っていた私ですが、スーザンを愛していた」

気鋭のアートディレクターとして活躍し、私生活では美しい妻を持った。普通に過ごしていれば、絵に描いたようなニューヨークセレブの生活が手に入ったはず。それが1988年(昭63)、まったく縁のなかったプロ野球の世界へ足を踏み入れることになる。

当時、コウタの父襄二はダイエーに勤めていた。慶大山岳部の同期で、のちにホークス球団社長にもなる田辺寿から誘われてのことだった。その縁で、コウタはダイエー中内功会長から通訳、渉外担当としてオファーを受ける。思わず「やります」と手を挙げていた。電通で恵まれた生活を送っていても、常に本当の自分を探していた。その気持ちに突き動かされた。

ロサンゼルスに住んでいた77、78年。2年連続でドジャースがワールドシリーズに進出。その頃から野球の魅力にはまった。とはいえ広告代理店とは畑違いの仕事。大変さは想像を超えていた。

団野村がオーナーだった米1Aサリナス・スパーズへ、野球留学のために吉永幸一郎や田口竜二らを連れていったこともある。「いわゆるエリートだった私が、野球しか知らない高校出たての人たちを面倒見るのは大変だった。みんな泣いたり、私も若かったから怒鳴ったりしましたし」。申し訳なく思っていることもある。「両手投げの近田(豊年)君。杉浦(忠)監督がすごく目をかけていて。今考えると私のちょっとした導き方ひとつで、もう少し違った野球人生があったんじゃないかと」。ただ、こうした経験が、その後のコウタの大きな糧となる。(敬称略=つづく)【千葉修宏】

89年1月、福岡空港でダイエーホークス・中内功オーナーと杉浦忠監督
89年1月、福岡空港でダイエーホークス・中内功オーナーと杉浦忠監督