今ではチケット入手困難な球場となった横浜スタジアム。2012年(平24)シーズンからDeNAが本拠地とし、1998年(平10)の日本一以降に低迷した赤字球団を立て直した。苦しい時代も地域密着を貫き、ベイスターズの歴史を紡いだ人物が、横浜最後の球団社長で“ハマの黄門さま”と呼ばれた加地隆雄氏(享年74)だった。

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「俺が電話すれば由美かおるは必ず電話に出るんだよ」。酒席で調子が出てきた加地は豪気に笑った。実際は、ほとんど出ることがなくてもお構いなしだった。カラオケの十八番は「ああ人生に涙あり」。人生楽ありゃ苦もあるさ、と熱く力強く歌い上げた。

薄氷を踏む業績の中、09年10月に横浜ベイスターズ球団社長に就任した。同年の主催試合入場者数は124万6967人。18年と比べて約80万人も少ない。オレンジ色の空席も目立ち、当然の赤字経営。そんな逆風の球団に、球界とはほぼ無縁の道を歩んできた男はやってきた。

加地は電通横浜支社に約30年勤務。その後、代表取締役となったドラマ制作会社で「水戸黄門」に携わった。広告マン時代に築き上げた横浜政財界との人脈、そしてテレビマンとしての実績。それが経営とファンサービス、両面の立て直しを託された理由だった。

就任早々のあいさつで加地は「俺はベイスターズにカツを入れに来た」と訴えた。掲げた目標は、今では各球団が推進する「地域密着」。「地元横浜市民に夢を与え、喜んでもらえる強い球団を目指す」と宣言した。当時、球団常務だった佐藤貞二は「あり得ないキャラクター、経歴の方が社長になったと思った。でも年齢を感じさせない熱意とバイタリティーがあった」と振り返る。

情熱は、反作用も生んだ。誰にも相談せずに始まった本拠地開催試合前の右翼席訪問。当時は閑古鳥が鳴くスタンドで球団社長が直接ファンと触れ合った。前代未聞の行動はファンからは歓迎された一方で、球団内には「社長はデンと座って観戦すべき。自分の存在をアピールするためだろう」「電通上がりのちんどん屋」とやゆする声。そんな声を伝え聞いても意に介さず、加地は言った。「弱いにもかかわらず、毎試合、懸命に応援してくれている。少しでも恩返ししなきゃダメだろ」。

感謝を示しながら、いかに地域密着を進めるか。まず取り組んだのが「自前の球団を持とう」という考えからの球団、横浜スタジアムの経営一体化だった。しかし、利権問題などが複雑に絡み座礁。赤字続きの球団には、アクセルを踏み込むための財力も足りなかった。それでも、横浜港を周遊する観光船マリーンルージュでの尾花監督就任会見や、横浜ロイヤルパークホテル70階での筒香入団発表会見などを実施。地元にまつわる場所と球団イベントをつなぎ、地域との一体感をアピールするアイデアは、全て加地の発案だった。

陣頭指揮を執り、地域密着化を推し進めていたが、10年に球団売却問題が発生。その年体調を崩し、1週間ほど入院した。「加地さんは『倒れても俺は復活する』と力強かった。でも強がっていても70歳を過ぎた体は大変だったはず」(佐藤)。

翌11年12月、DeNAが新たに球団オーナーとなり、社長を退任した。志半ばかと思いきや、加地の反応は違った。「DeNAには情熱があるよ。今以上に横浜が盛り上がる」。座右の銘のように、繰り返していた言葉がある。「過去は変えられないが、未来は変えられる」。今季から横浜スタジアム右翼には、地上約30メートルの「ウィング席」が出来た。“ハマの黄門さま”はこの1席から、うれしそうに、ファンと一緒に試合を見つめているはずだ。(敬称略)【佐竹実】

◆加地隆雄(かじ・たかお)1940年(昭15)11月23日、千葉県生まれ。定時制高校から駒大経済学部入学。60年電通に入社し横浜支社営業部配属。90年同社東京本社営業局局次長。96年にドラマ制作会社の代表取締役に就任。09年に横浜の球団社長に就任。12年にDeNAの初代球団会長を務めた。15年1月13日、心室細動で74歳で死去。