江川とともに入部した作新学院野球部の新入部員は、なんと140人。構成要員では140分の1も、存在感なら紛うことなく、江川が140人中、断トツだった。

 上級生の度肝を抜いた。まずは、その打撃力だった。1年部員は入部当初体力づくりが優先され、通常許可されないフリー打撃に、江川が指名された。

 練習用に使われた「竹バット」(竹板を張り合わせた合成バット。芯に当てても飛距離が出ず、手がしびれる)で、なんと、グラウンドを囲む地元特産「大谷石(おおやいし)」のフェンスを、軽々と越える当たりを連発した。

 野球部寮で江川と同部屋、3年三塁手だった大橋弘幸は「この1年坊主、どこまで飛ばすんだってくらい、飛ばしてた」と目をひんむいた。その先輩は、夜に、さらに驚かされる。床を並べて寝入る前、野球談議をしていた。「打者の習性を覚えれば、投球に役立つよ」と助言すると、「僕は打者を“5球”で仕留めたい」と返した。1球目は真ん中高め直球、2球目は内角低めカーブで腰をひかせ…。回数、スコア、アウトカウント、打者の左右、走者の有無にコースと球種をからませボールカウントを想定し、5球目に勝負球、「一番自信のある真ん中高め直球」を放るのだ、という。「ほんとに中学を出たばかりなのか!?」。先輩は恐れをなした。

 むろん、本職の投球練習でも、「怪物」はその正体を惜しげなくさらした。ことに「遠投」の際のボールの速さと勢いに、誰もが目を見張った。江川は言う。「ブルペンで人が見てるときは全力で投げなかったけど、遠投だけは力を入れてやった。小学生から河原の石投げで鍛えてから自信もあった」。

 女房役の同学年、亀岡偉民も「軽く投げてもビュンビュンきた。こいつは、軟球でも硬球でも関係ないんだなって、感心した」。100メートルの距離を置いても、落ちない球威に感服した。 捕手で元アール・エフ・ラジオ日本アナウンサー、染谷恵二は、入部3日目に江川とキャッチボールの相手を“させてもらった”。「江川は別格で、僕らは有象無象。たまたま相手を務めたけど、グラブだとミットみたいにどっしり構えて捕球することなんてできない。もっていかれちゃう。球がすごい勢いでホップした。全くあさっての、違う世界の人という印象」と話す。“怪物級”の球にショックを受けてか? 2週間後に退部した。管弦楽部に転部、スネアドラムを操りながら、甲子園に同行しチームを応援する側に回った。

 作新では、主戦級の投手だけ、三塁側ベンチ裏にあるブルペンでの投球が許される。江川はここでも特別待遇された。受けた亀岡偉民は苦笑した。

 「受けると手が痛いからパット(ミットの親指の付け根に装着する合成樹脂)を2枚入れた。でも人さし指が血行障害になって10年くらい治らなかった」。

 同じ新入部員の投手、大橋康延は、まず入学式でわが目を疑った。地元の小山を目指していたものの、江川が来ると聞いて回避、作新を選んでいた。「小山にいるはずの男が、なんでいるんだ!」。せっかく登板機会を求めて来たというのに-。

 「負けてたまるかと思ったけど、投げるたびにノーヒットノーランでしょ。モノが違ってた。自分は江川の“敗戦戦闘員”みたいなもの。超えられない。3年間は耐えて、ノンプロとか大学とか次のステップのために気持ちを切り替えようとした」

 江川を取り巻くように、去る者、残る者が複雑にからみ、交錯した。最上級生になるころには、140人の同期入部者は、わずか14人だけに絞られていた。作新の練習は、それだけ過酷で厳しいものだった。(敬称略=つづく)

【玉置肇】

(2017年4月8日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)