立松和平の小説「遠雷」にあるように、その舞台、宇都宮は、雷が多い。

 夏の夕刻、沛然(はいぜん)と雨が降り出し、漆黒の空のあちこちに閃光(せんこう)が走る。

 練習中の作新学院グラウンドにも、それは容赦なくとどろいた。江川らが練習中、1度グラウンドのセンター後方に、ごう音とともに雷が落ちた。同時に外野手が1人、昏倒(こんとう)した。一瞬、選手全員が固まる。ややあって、外野手は体を震わせながらも、ゆっくり立ち上がった。大事には至らなかったが、そんなアクシデントがあっても、練習は中断されることなく続けられた。

 「練習嫌い、走らないってレッテル貼られたけど、結構人が見てないところで走った」と江川は言う。努力しているところは人には見せない。そのポリシーは一貫していた。

 江川が入部したころ、野球部は部長・山本理(16年11月19日、83歳で死去)、監督・渡辺富夫のコンビだった。江川はこの首脳陣に、徹底的に走り込まされた。学校から5キロほど北東にある戸祭山(通称水道山)までの往復ランニング。標高186・3メートルの頂上まで、138段の階段を猛ダッシュで駆け上がった。早朝自由参加で走らされることもあったが、コースの途中に山本理の自宅があり、チェックされていた。この走り込みが、江川独特の投球フォームの土台となった。小学生時代からのバネと足腰の強さと融合する。

 ランニングが“ムチ”なら、“アメ”も当然用意された。山本理は江川をいきなり入寮させ、同部屋の3年の大橋弘幸に「江川には“洗濯係”はさせるな」と、新入部員の仕事を免除させた。1年ではほかに大橋康延と亀岡偉民が入寮したが、この2人は先輩のユニホームの洗濯に汗だくになった。

 部屋長だった大橋弘幸は、穏やかな人柄そのままに言った。「水仕事をさせて、手のマメがふやけてつぶれては大変ということだった」。江川は入寮の段階で、既に夏の県大会の主戦力に組み込まれていたのだ。

 野球部寮は1部屋3、4人で構成され、全員で15、16人所帯だった。江川の部屋は8畳ほどの広さで、3年が大橋弘幸、2年山崎雄二の3人部屋だった。代々受け継がれた年代ものの机だけが常備され、その横には各自の布団が積まれるだけの、「ただ、寝るだけのための部屋」(大橋弘幸)だった。

 もう1つ、江川にはこの部屋でやらなければならないことがあった。1年で進学クラスだったが、2年から「Aダッシュ」という、1クラス30人だけの精鋭クラスに入るため、3時間の練習後は深夜0時か1時まで、机に向かった。

 「蛍光灯をつけて勉強すると先輩から『明るい』と怒られる。江川も、僕も頭から、蛍光灯もろとも布団をかぶってやってましたね」。亀岡偉民は懐かしんだ。

 「Aダッシュ」への成績上位30人を選抜するため、月に1度模擬試験があり、江川は見事に「2番」の成績をマーク、野球部だけでなく運動部から初の「Aダッシュ」生となったのだ。

 この「Aダッシュ」、江川にはまた難敵だった。作新では放課後、生徒全員に部活が課せられたが、同クラスの生徒は「証明書」を提示すれば帰宅を許され、塾での自己学習に充てられた。しかも、他クラスが6時限だったのに対し、7時限のカリキュラムが組まれていた。このため、江川だけは、練習に1時間遅れで参加する措置が取られた。

 「怪物」は、野球と勉学両面で「努力の人」となった。

(敬称略=つづく)

【玉置肇】

(2017年4月9日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)