「憎い」ヤツは、しかし、すぐに「憎めない」ヤツへ、転化する。江川の素顔に触れたとき、球児たちの「ふてぶてしく、嫌なヤツ。無表情で、何を考えているか不気味」という江川像は一変した。

 前年の夏、江川初の完全試合を喫した烏山ナイン。その翌秋の県大会決勝で、再び作新学院と相まみえる。「また、やられるのでは…」。おびえと恐れがないまぜになり、ガチガチのナイン…。試合前、外野を走っていた主将、棚橋誠一郎は江川とすれ違いざま、声を掛けられる。

 「おい、ネット裏にいい女がいるぞ!」。耳を疑った。「結構、おもしろいやつだな」と、親近感を抱いたという。「からかわれたんでしょうけど、嫌な気持ちはしなかった」。

 印象を変えたのは、捕手の堀江隆も同じだった。江川が打席に入るたびに、確かに、“ささやき”が聞こえてきたのだ。「審判に聞こえないくらいの声で、『次はインコース? アウトコース?』なんて話し掛けてきた。“逆ノムさん”状態ですよね」と苦笑。頭部死球を受けた怖さは、このとき霧消した。

 棚橋誠一郎が、ちゃちゃを入れる。「堀江は、ほんと、江川に感謝しなきゃあ。頭にぶつけられた直後の国語のテストで98点取っちゃうんだから」。

 試合中のその“ささやき”は、あちこちで目撃されている。3年夏、雨の甲子園で作新と激闘を演じた銚子商の一塁手で、国際武道大監督の岩井美樹も、その“被害者”の1人。「江川が、1度出塁してきたとき、『今日の銚子商、強いな』と言うんですよ。『そんなこと言うなよ』と返したら、審判から『私語は慎みなさい!』って注意された」。

 敵ながら、岩井美樹は「江川ファン」を隠そうとしない。3年時の春の関東大会(山梨)では宿舎近くを散歩中、江川とバッタリ。「喫茶店でお茶した。明るくてよく笑う男だったよ」。

 甲子園での試合後、宿舎で「オレたち勝っちゃっていいの? みんな江川のこと見られないじゃん!」と話していたら、電話が鳴った。取り次いだ監督(斉藤一之)夫人が、びっくりした顔で「電話よ! 江川クンから!!」。

 「頑張れよって励まされた。試合後には、ジュン・イシイとルイスビルのバットを2本『使ってくれ』って渡された」

 おちゃめで、話し好きで、人に気を使いすぎる。およそ、マウンドで見せる鉄面皮とは懸け離れた表情こそが、「怪物」の素顔であり、マウンドの顔こそ仮面のそれだった。

 同じ寮生、捕手の亀岡偉民は言う。「尻が馬みたいにでかくてヒップアップしてるから、“馬(バ)ケツ”って呼ばれてましたよ。将棋もよくやったけど、強かった」。

 小山中時代にバッテリーを組んだ小堀充は、心根の優しさを指摘する。「相手の気持ちを考えすぎなんだよ。マウンド同様、わがままでよかったんだ」。

 2年のある夜、野球部寮で江川が「事件」を起こした。練習方法を巡って、当時主将の遊撃手、岩崎育吉に盾ついたのだ。下級生がチーム方針に異論をはさむなど、タブー。それでも義憤に駆られ、己を捨ててぶつかった。「夜中にベンチで泣いたよ。(野球を)やめようとも思った」と江川は言った。

 センバツの小倉南戦、7回を投げ終えると監督の山本理に「大橋(康延=写真)を投げさせてください」と願い出た。「怪物」を避けて、作新に来たはずが、陰に隠れて登板機会に恵まれない「控え」を、おもんぱかった。「あいつに悪いなって頭はいつもあった。オレも、あのまま投げれば通算三振数は増えたんだろうけど…」。

 その気づかいはその後も、自らが入ったことで巨人を追われた、小林繁(10年1月17日、57歳で死去)への「おわびしたい…」思いとなって、現役中、否、引退後もずっと引きずることになる。(敬称略=つづく)

【玉置肇】

(2017年4月14日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)