もし、江川の時代にスピードガン表示があったら、何キロ出ていたか? 高校野球ファンが寄ると触ると出る話題だ。江川の甲子園見参は73年(昭48)春と夏。一方、高校野球のスピードガン表示がテレビで始まるのが04年(平16)だから、かなり遅れての登場となる。

 巨人では自己最多の20勝を挙げた81年に最速151キロをマークしている。

 江川に球速へのこだわりを聞いた。「スピードは重視してなかった。高めより低めの方が、スピードガンの数値は出る。高めが出るように思うけど、(打者の)目線が近いから速く感じるだけなんだ。オレは高めで空振りをとったから、スピードは出てないんじゃないかな。低めに投げてれば160キロ出てるよ」。

 江川の武器は、打者の手元で浮かび上がって見える直球だ。「それも目の錯覚なんだけどね。例えばフォーク。直球と思って振りにいくとボールに重力がかかって、落ち方が大きくなるから空振りする。高めの直球もボールの回転を激しくすると空気抵抗で浮く」。

 さすがは野球解説者。弁舌鮮やかに、勉強した数値を挙げながら、自らの剛速球を分析し続けた。「球を(時速)140キロで投げると、ホーム到着まで約60~70センチ落ちてるわけよ(※)。それを真っすぐと“打者脳”は認識する。でも30センチしか落ちなければ、ボールは浮いて見える。重力に逆らうスピンが働いて、上に浮き上がるように見えて、ボールの下を振っちゃう。オレはそれを狙った」。

 浮き上がる「球道」が、はっきり見えた試合がある。1年秋、関東大会の前橋工戦。1回2死から4回まで10連続三振の快投を演じた。「あの試合は高めだけじゃなく低めに投げたボールが浮くのが見えた。低めが浮くのはめったにないから。“怪奇現象”だよね。あのままなら絶対パーフェクトだったよ」。

 というのも5回、打者江川が頭部に死球を受け退場。チームも敗れ、センバツへの道は早々と断たれた。

 「怪物」に甲子園は遠かった。2年夏の栃木県大会。3試合連続ノーヒッター(石橋戦は完全)で臨んだ準決勝では、進路決定の際迷いに迷った小山に阻まれた。それも延長10回2死まで無安打に抑えながら、11回0-1のサヨナラ負け。客席の非難は力投に報えない“江川以外”に向けられ「バカヤロウ! 江川を見殺しにするな!」とヤジが飛んだ。過激な客から石や空き缶がグラウンドに投げ込まれ、作新ナインはベンチから出られなかった。渡辺富夫から部長山本理への監督交代にもつながった。

 甲子園での「怪物」を恋い焦がれる思いは、県内だけでなく、関東、さらに日本中に伝播(でんぱ)する。3年夏の県大会、作新の試合日には入場券を求める徹夜組が100人を数え、早朝3時ごろから長い列ができる。約5000台の車が球場駐車場と、臨時駐車場として開放された軟式球場の外野芝生を埋めた。中には練馬、品川ナンバーもあったという。宇都宮駅発着の臨時列車も運行された。

 「自分を分析すると、このあたりまで、小生意気で調子者だった。でも、ノーヒットノーランを3回、4回やっても甲子園にいかせてくれない。江川卓の担当の神様が、そんな性格を変えてやろうとしたんじゃないかな…」

 本人の「謙虚でいたい」思いとは裏腹、周囲は喧噪(けんそう)であふれ、3年夏の甲子園で極限に達する。柳川商戦(73年8月9日)の試合時間帯。江川を見る「カラーテレビ」(同年白黒テレビの普及率を逆転した)に猛暑続きのクーラー需要が相まって、お膝元の関西電力は電力供給予備力がゼロになった。

 「あわや停電…」の危機。大手企業、工場に冷房、エスカレーター使用の一時中止が要請された。札幌から福岡のデパートのテレビ売り場や都内の商業施設の大型テレビ前は十重二十重の人垣で埋まった。当時南海兼任監督だった野村克也はナイターまでの時間、お忍びで江川を見に来ていた。

 「怪物」の正体を見たい日本中の欲求は、甲子園の後先で熱膨張を続けた。(敬称略=つづく)

【玉置肇】

 ※電気通信大大学院の論文に「バックスピンする球体に働く負のマグナス力」がある。その実験データによると、プロ野球の投手が時速145キロの真球(縫い目のないボール)を投げると、1・7メートル落下する。一方NPB公認球はフォーシームで0・45メートル落下する、という。つまり、145キロのフォーシームでバックスピンをかけると0・45メートル落下するが、江川の場合はボールの回転数が他に比べ高く、より落差の低い0・30メートルほどだったと見られる。

(2017年4月17日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)