佐倉一の校庭には、センターから右中間寄りのところに講堂があった。打席から約100メートル。ここに当てるのは2年生の長嶋ぐらいだった。

 会心の打球を当てるたび、長嶋は満足そうな笑みを浮かべていた。だが、監督の加藤哲夫は笑ってもいられなかった。佐倉一の前身は佐倉藩の藩校で、講堂は伝統ある建物だった。

 加藤 学校から「おい、あそこにあんまり打たせないでくれ」と言われました。私も「分かりました」なんて答えていましたけど、長嶋には「構わず打て」と言っていましたね。

 監督といっても、加藤は大学生だった。学校の教員や職員ではない気楽さがあったのかもしれない。これは、長嶋にとって何とも幸いだった。

 講堂への直撃弾は、当時の長嶋の打撃スタイルを如実に表している。長嶋自身が解説する。

 長嶋 ヘタだったんだな。引っ張れなかった。やっぱり技術がまだね。本当の腰、バットの使い方ができなかった。若いせいか、決していいフォームじゃない。きれいなフォームはしていなかったね。ところがセンター方向にはものすごく打つのよ。

 監督の加藤が補足する。

 加藤 内角が苦手で引っ張れない。好きなのは真ん中から外角高めの球。それをセンターから右に打ち返す打撃スタイルでしたね。

 当時の練習では竹でつくったバットを使っていた。木製を使えるのは試合直前と試合だけ。その状態で右方向へ長打が出る打撃は魅力だった。同時に内角を引っ張れない欠点もあった。だが、加藤は欠点に目をつぶった。長嶋に気持ちよく打たせた。

 加藤 右打者だから、本来は左中間にライナーを飛ばす打撃に変えなければいけない。でも、彼にこう言ったんです。「今、君を直してフォームを崩してしまったら、チームがダメになってしまう。だから現状のままでいく。高校野球が終わったら、自分で直さないとダメだよ」と。

 2年から4番打者だった長嶋は、攻撃の要だった。長嶋が打たないと勝てないチームだった。

 加藤は決して壮大なビジョンを持って長嶋を指導していたわけではない。だが、長嶋にとって幸運な方向へ進んでいった。

 長嶋は欠点も気にせず、右中間の講堂を壊し続けた。そうやって、のちに日本中を熱狂させるバッティングを磨いていった。

 当時は打撃マシンもない。順番に投げて、打つ。単純な練習を繰り返した。

 長嶋 野球の練習は好きだったね。夜遅くまでやっていた。マシンもない。投げて打って。こと野球に関することは好きだった。まあ、練習量はあったけど、高校野球は高校野球。田舎の高校野球だったけどな。

 まだ長嶋は野球界にとって特別な存在ではなかった。一介の高校球児にすぎなかった。だが、練習に対する、野球に対する姿勢は突出していた。ミスタープロ野球へ育つ土壌が、ここにもある。(敬称略=つづく)

【沢田啓太郎】

(2017年4月21日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)