サードにコンバートされた長嶋は、攻守ともに動きがよくなった。

 長嶋 サードに行ったらエラーをしなくなった。そこにきてバッティングもね。右中間にガーン、ガーンって余計に出るようになった。野球選手として変わった感じがしたね。ショートからサードに交代したことが、高校野球で一番大きかったと思うよ。

 それまで1度もサードの練習をしたことはなかった。小さい頃からずっとショート。当然ながら愛着や誇りは持っていた。

 コンバートを命じた監督の加藤哲夫も、それは気にかかっていた。

 加藤 本人は何かテレビで「監督に怒られてサードをやったけど、本当はショートがやりたかった」と言っていたみたいですけどね。

 ただ、長嶋は1982年に発刊された「佐倉高創立80周年記念校史」の中で、こう述べている。

 「サードという自分の性格にあった攻撃的なポジションにコンバートされたことが、今日の私があると思います。他のポジション、例えば、ショート、セカンドであったならば、また違った野球人生であったと思います」

 守備の負担が軽くなったこともあろう。強い打球に向かっていくことで、長嶋の闘争心が湧き立ったところもあっただろう。とにかく、日本プロ野球界の歴史を大きく変えるコンバートだった。

 後日談がある。市川のグラウンドは、長嶋が初めてサードを守った地になる。

 加藤 のちに(市川の)理事長さんと話す機会があって、話が出たんです。「市川との試合からサードをやったんですよ」と言って、スコアブックを送ってあげた。そうしたら「これは宝物にします。長嶋三塁手は私の学校から生まれました」って。飾ってあるんじゃないかな。周りは牛車なんか通る梨畑でね。当時の人は「グラウンドがよくなかったから長嶋選手がエラーしたんでしょう」と言っていたけど、いや、それだけじゃないよとね。

 サードになって輝きを増した長嶋は、最後の夏を迎えた。

 参加37校で迎えた千葉県大会。佐倉一は2回戦で千葉工、3回戦で市原一、準々決勝で東葛飾を下して南関東大会への出場を決めた。準決勝で銚子商に敗れたものの、長嶋は4試合すべてで安打を放った。絶好調だった。

 当時は千葉、埼玉を勝ち抜いた8チームが南関東大会に臨み、優勝すれば甲子園に出場できるシステムだった。

 佐倉一は1回戦で、熊谷と対戦が決まった。のちにプロ野球の東映に入る福島郁夫がエースの強豪だった。

 長嶋 調子はよかったものがあったかなあ。せっかくここ(南関東大会)まで来たんだから、優勝すれば甲子園に出られるんだという気持ちは半分あったよね。

 53年8月1日、県営大宮球場。

 この試合は、長嶋が世に出ていく大きな契機となる。ミスタープロ野球の伝説に欠かせぬ試合になる。

 朝からパラパラと落ちていた雨は、試合が始まる前にやんでいた。(敬称略=つづく)

【沢田啓太郎】

(2017年4月25日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)