長嶋の父利(とし)は、臼井町の役場に勤めていた。かたわらで農業も営むなど多忙で、長嶋の試合を見る機会はなかった。だが、南関東大会の熊谷戦にはかけつけていた。

 長嶋には何も告げず、たった1人で右翼の外野席で観戦していた。

 長嶋 全然知らなかった。ゲームが終わって、うちに帰った時に「実はオレもいたんだ」と言われてね。あ~そうか、来ていたなと思ってね。フフフ。

 利は翌54年、長嶋が立大1年の時に急死した。長嶋が放った当時の6大学新記録となる8本塁打、そして天覧試合のサヨナラ弾を含むプロでの444本塁打を、1本も見ていない。

 利が見た唯一のホームラン。それが熊谷戦のバックスクリーン弾だった。

 この試合に敗れ、長嶋の高校野球は終わった。ただ、強烈な印象を残したことで、大学、社会人、そしてプロから声がかかった。

 長嶋 8月…いや、9月だったかな。プロの人も来た。巨人、大映、阪急。この頃はプロ野球に入るなんて誰も思っていない。自分では「やってやろう」という気持ちもあったけど、オヤジがダメだとね。

 社会人の話もあったが、監督の加藤哲夫の勧めもあって大学進学の道を探った。加藤は立大に通う大学生で、当初は野球部にも入っていた。右膝を故障したため、母校の指導に専念するようになった。その関係から立大進学を勧めた。

 加藤 合宿の時だったか、長嶋を自転車に乗せた時に「おい、立教に来いよ」と言ったら、「いや~立教の練習はきついですから」って。私も立教スタイルの練習をさせていましたから。でもね、「長嶋、立教でやる練習をやらないとモノにならないぞ」と、そんなことを言いました。

 秋にボール1個、バット1本を持って立大の練習に行った。

 加藤 本屋敷(錦吾=阪急-阪神)とか杉浦(忠=南海)もいてね。守備の方は「長嶋はヘタだな」となっちゃったけど、打撃ならいけると。甲子園組は大きな飛球でホームランを打つけど、長嶋はライナーで入れちゃう。あのライナーは他にはないと評価されたんです。

 立大に進んだ長嶋は、監督の砂押邦信に鍛えられて成長していく。「ミスタープロ野球」と呼ばれ、日本中を熱狂させる選手になっていく。

 長嶋といえば、立大、巨人の活躍が思い浮かぶ。その華やかさから比べれば、まるで日が当たらぬ高校時代だった。

 だが…だからこそ、長嶋は、高校野球に対する思いが強い。

 長嶋 やっぱり高校野球は、日本の野球において一番大事。もちろんスポーツ文化の中でNO・1だろうしね。伝統もそうだし、高校野球があってプロ野球がついていく。甲子園がなかったら野球はどうだろうね。ここまでの人気はないよ。大きいよな、甲子園がな。

 巨人監督時代には、定岡正二、篠塚利夫(和典)、松井秀喜ら、甲子園で活躍した選手をドラフト1位で獲得した。いわゆる逆指名制度ができてからも「甲子園のスターを取らないといけないんです」と言っていた。

 01年限りで監督を退くと、翌02年夏には甲子園を訪れて高校野球を観戦した。かねての希望だったという。03年も決勝戦を見た。病に倒れた後も、春、夏と欠かさずテレビで観戦している。

 長嶋 まさに神のなんとか…そういうものが甲子園にあるから。何とも言えないものがあるよ。やっぱり、あそこに行った選手じゃないと分からないものがあるよ。出た者じゃないとね。

 

 野球小僧に逢ったかい

 男らしくて純情で

 燃える憧れスタンドで

 じっと見てたよ背番号

 僕のようだね君のよう

 オオ マイ・ボーイ

 朗らかな朗らかな

 野球小僧


 一昨年の12月。長嶋はテレビ番組で「野球小僧」という曲を歌った。TBS系「サワコの朝」にゲスト出演し、「記憶の中で今もきらめく1曲」に挙げた。彼が高校1年の時に発売され、流行していた曲だった。

 長嶋の歌声は澄み渡っていた。きっと、あのころも歌ったのだろう。甲子園にあこがれ、野球に打ち込んでいたあのころにも…。(敬称略=おわり)

【沢田啓太郎】

(2017年4月27日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)