1940年(昭15)、板東は旧満州の東北部に位置した虎林(こりん)で生まれる。終戦で日本にたどり着く道のりは苦難だった。徳島に住み着いた後も貧しい生活が続いた。

 父操は兵役に召集され、母久江は図們(ともん)駅近くで料理屋「鳴門」を営んだ。だが、終戦直前の戦禍で母と兄姉3人とともに無一文になって家を追われる。板東が5歳のときだった。

 板東 うちは将校が通ってくれる羽振りのいい店だったんです。うちだけが日本から連れてきた女性を雇っていたこともあったからでしょうね。でも戦争によって一夜にして生活が逆転しました。ソ連軍が自動小銃で発砲すると、そのあたりにいた人間はみんな即死です。母親は男にみせるのに頭をそったし、日本人は着の身着のまま泥山に逃げた。それが鎮まって下山すると家はもう空箱のようでした。

 乳飲み子を抱えた若い母親はソ連兵の略奪、強姦(ごうかん)から身を守るのに必死だった。冷え込んだ暗がりのなかで集団自決する家族もいたという。

 板東 私たち兄弟4人はおふくろが少しでも持ち帰ってくるコーリャン(イネ科に属し、モロコシの一種)を食べながら生きました。

 その後、久江は日本に引き揚げるため、長女弘江、長男良介、次女節子、そして次男英二を引き連れて中国大陸の葫蘆島(ころとう)にたどり着き、そこで上陸用舟艇リバティ号に乗り込んで、博多湾を目指した。

 板東 図們から葫蘆島までは列車に乗ったり、歩いたりの繰り返しでした。野宿もしたし、列車といっても材木なんかを積んだ貨車で、床下で寝たら凍え死ぬから、子供は木に縛られて寝たんです。女性は列車から落ちないように縄でくくりあって寝てました。

 47年3月。博多湾に入航するのに3日がかかった。その直前には船内では伝染病が発生したため上陸が延びた。多くの遺体が甲板から海に投げ込まれた。そのたびに残された家族から悲鳴が起こった。板東らは敗戦から1年半がかりで、命からがら日本に足を踏み入れた。

 板東 せっかく日本に到着するというのに、その直前に伝染病に感染して死んでいく人が何人もいました。毎朝、戸板のようなものに乗せられた大人や子供の遺体が「ドボンっ! ドボンっ!」と次々と海に投げ込まれるんです。ひとつ間違えれば自分たちだったかもしれませんが幸運だったとしか言いようがないですね。

 日本に到着した後の板東少年は、神戸にあった母の実家を経て、父操が待ち構えた徳島に移り住むのだった。(敬称略=つづく)

【寺尾博和】

 ◆1940年代の高校野球 第2次世界大戦の影響が甲子園にも色濃く出た時期。夏の甲子園は41年から45年まで中止となった。甲子園球場は接収されていたため、再開した46年の夏(全国中等学校優勝野球大会)は西宮球場で開催された。47年の夏に7年ぶりとなる甲子園球場での大会開催。学制改革により、48年以降の夏は「全国高等学校野球選手権大会」と呼ばれる。また、今でも夏の甲子園の大会歌である「栄冠は君に輝く」が全国から募集により制定されたのも48年だった。

(2017年4月29日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)