旧満州から引き揚げてきた板東は、徳島県板野郡板東町(現鳴門市)で暮らした。第1次世界大戦でドイツ兵を収容した「板東俘虜(ふりょ)収容所」。板東一家はその「新生荘」と名付けられた引き揚げ寮に住み込んだ。徳島は7歳になった英二にとって亡きがらが転がった満州と違って別世界。しかし、貧困に変わりはない。生きるために盗む日々を過ごすのだった。

 板東 毎日物を拾ったり、盗んだりして食べてました。お米を食べるのはしんどくて麦飯ならいいほうでした。おかずは、小川でどじょうをすくって焼いて食べた。フナとかウナギも捕ったし、台風がきたら上流から流れてくる沢ガニがおかずです。お風呂は池か川につかった。お百姓さんの家にはだいたい鶏舎がありましたから、友達と一緒に待ち伏せして、卵を産むところを狙う。そしてニワトリが卵を産んだ瞬間にいただくんです。そのタイミングが遅れてしまうと、イタチに負けるんですよ。それにお金のある家の子供は遠足とか運動会になると、必ずゆで卵を2つ持ってくる。それをスキを狙って、こっそり頂戴するんです。

 板東小学校、同中学校と豊かな自然のなかで暮らしたが生活は悲惨だった。

 板東 あとは野ウサギですかね。あれをつかまえるのはコツがあるんですよ。野山の下から追い掛けると後ろ足が速いから逃げられる。だから上から追い込んで転ばせるんです。そこを網にかけてつかまえる。その腹のへったウサギにぬかを食べさせて重くしてから量り売りにかけると高く売れるんですよ。それをお金にして生活費にしました。

 野球との出会いは、53年4月に板東中学に入学後だ。最初バレーボール部に所属したのは道具にお金がかからなかったからだが、部員不足だった野球部から勧誘を受けた。板東の運動神経はずばぬけていて、中3のときに徳島県内で健康優良児に選ばれるほど体格も良かったから、ピッチャーとしても能力を発揮した。

 板東 新生荘の隣に塀のない少年院がありました。毎晩のように脱走者がいて町の半鐘が鳴った。でも後に毎日お昼頃にその少年院から18歳未満の少年が15、16人出てきて試合をすることになるんです。その人たちは試合後また少年院に戻っていくんですが、我々は年上の人たちと互角以上に戦いました。あれで板東中は鍛えられたんです。

 板東がいたチームは61勝無敗。圧倒的な強さを示し、エースで4番としてその名を知らしめた。ほとんどのレギュラーが鳴門高に進学するなか、板東は徳島商に進んだ。野球部長の林健二から下宿代の免除が提案されるなど家庭の事情が大きかった。高校野球史に残る大記録は高3の夏に生まれる。(敬称略=つづく)

【寺尾博和】

 ◆1950年代の高校野球 51年夏、甲子園球場の内野席スタンドに大きな屋根が復活。鉄傘と呼ばれていた屋根は戦時中、金属物資不足により撤去されていたが、後に「銀傘」と呼ばれる大屋根が設置された。52年夏は「背番号」つきのユニホームが登場。53年夏は初めてテレビ放送が行われた。板東が出場した58年夏の甲子園は、第40回の記念大会。各都道府県と沖縄から1校ずつで、47代表による大会となった。

(2017年4月30日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)