ついに力尽きた。準決勝の作新学院戦でも14三振を奪った板東だったが、柳井との決勝戦でつかまった。14安打7失点。バットを短くもっての短打戦法にでられて敗れた。阿波の怪腕による「奪三振ショー」も、わずか3つにとどまった。

 当時の徳島新聞は地元の盛り上がりを報じている。電気器具店の前には大勢の人だかりができて、県内でテレビのある喫茶店、食堂は超満員、家庭の主婦もラジオにかじりついたという。

 秋田商、八女に続き、魚津戦では再試合を演じて、作新学院戦でも9回を投げた。柳井戦は0-7で敗れる。再試合を含め、6試合62イニングを1人で投げ抜いた。本人は疲労の蓄積を認めなかったが、限界だったのかもしれない。

 板東 決勝の柳井戦は眠かったんですよ。試合途中でものすごく睡魔に襲われました。ベンチで居眠りをしそうになりましてね。氷水を首にかけたらハッと起きたんです。今思えば疲れがきていたのかもしれませんね。

 徳島新聞は大会総評で「力投型の板東が打ち込まれるとワンマンチームはこんなにももろいものだろうか」と前置きした上で、「板東にこれ以上の力の投球を望むのは酷といえよう。その超人ぶりは球史に長く残るだろう」と称賛している。

 板東 私が1試合で7点も取られたのは、後にも先にも、あのゲームだけだと思います。野球人生で最初で最後でした。きっと疲れてたんでしょうね。なんにも悔しくなかったです。1回戦だけは勝とうと言い合ってたんですから、すんだ、すんだといって、これで解放されると思っていました。

 宿舎に帰った後、監督の須本憲一から集合がかかった。全員が正座で構えた後、須本が口を開いた。

 板東 また怒られるのかと思ったので意外でした。監督は「わしを男にしてくれてありがとう」とこうべを垂れるんです。そのとき初めてみんなが涙を流した。監督もつらかったんだろうなと初めて思ったんです。僕もうるっとしたと思いますが、泣いたかどうかは記憶にないですね。

 1958年(昭33)。第40回の区切りとなった夏の甲子園で板東が記録した通算83奪三振は、今でも大会記録としてさん然と輝いている。それに次ぐのが06年早実・斎藤佑樹の78奪三振。その後、大学進学を希望した板東だったが、家庭の事情でプロ入りを決意する。中日で11年間の現役生活(77勝65敗)を終えた。

 板東 あれから半世紀以上たつんですね。僕の記録を斎藤が抜きそうになったじゃないですか。あのときだけはドキドキしましたね(笑い)。でも今思うと板東ってすごいよ、ほんま。すごいピッチャーだったんですね。どんな苦しいことも我慢してきましたから、こんな負けず嫌いもいませんよ。高校野球は大きく進歩しています。でもこれから先、もう甲子園に板東英二は出てこないでしょうね…。

 厳寒の満州から日本に引き揚げ、祖国に移り住んだ徳島でも貧しかった少年は、大海原のような甲子園で偉大な記録を築いた。その熱いドラマは永遠に語り継がれるだろう。(敬称略=おわり)

【寺尾博和】

(2017年5月7日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)