敗者は、居場所が分からなかった。

 83年夏。前年夏の1回戦から連勝街道を突っ走ってきた池田が負けた。池田の正捕手だった井上知己が、その衝撃を振り返る。

 井上 2年の夏から3年の夏までぼくらは15連勝しました。負けたときに、ベンチ前でどこに並べばいいのか分からなかった。

 井上は、2年夏は控え捕手で、3年春は水野雄仁とのバッテリーで甲子園の頂点に立った。常勝・池田をホーム後方の定位置から三塁側ベンチ前に追いやったPL学園のエースこそ、15歳の桑田真澄(現スポーツ報知評論家)だった。

 甲子園は池田の時代だった。超高校級のエース水野に、名将・蔦文也が鍛え上げたやまびこ打線。パワー野球は1年生投手をのみ込むと誰もが思っていた。PL学園の選手すら、そう思っていた。上級生はあきらめに満ちた言葉を次々にかけた。

 桑田 僕が先輩に言われたのは「桑田、今日はどうせ負けるんや。でも10点以内に抑えろ」ということでした。「大阪の恥やから9点までにしろ」と。

 だが、何の励ましにも聞こえない言葉に、桑田は光を見いだした。

 桑田 1イニング1点取られていいんだ。そのとき、僕はそう思ったんです。ゼロは絶対にスコアボードに入れられないと思っていたけど、なんとか1点ずつ踏ん張ればいいんだと。でも勝負はやってみなきゃ分からないと、一番思っていたのは僕だったかもしれない。

 落ち着いていたわけではない。甲子園に着き、グラウンド入りした1年生の目に飛び込んできたのは、三塁側ベンチ前で試合開始に向けてウオームアップするエース水野や主将・江上光治の大きな体だった。

 桑田 とにかく体格が違う。まるで牛みたいに大きいと感じました。これが本当に同じ高校生なのかな、というのが率直な思いでした。

 対する池田は「甲子園で一番楽な試合ができる」と感じていたという。3回戦で前年夏の決勝の相手、広島商、準々決勝で剛腕・野中徹博を擁する中京(現中京大中京)と、難敵を続けて退けたばかり。投手と4番が1年のPL学園に脅威は感じなかった。

 池田先攻で試合は始まった。初回2死から桑田は江上、水野の3、4番に連打を許したが、5番の吉田衡を投ゴロに打ち取った。

 桑田 初回のピンチを無失点に抑えて、スコアボードにゼロが1個ポンと入った。そのゼロ1つが僕に大きな自信をつけてくれたんです。これはもしかしたら、次の回も無失点に抑える可能性があるかもしれないと思いました。そしてゼロが重なっていくごとに、僕はさらに自信をつけていくわけです。

 世間を、上級生をアッと言わせる快投へ、時間が動き始めた。

(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年6月4日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)