両雄は、今も並び立っているはずだった。桑田(現スポーツ報知評論家)と清原和博。PL学園入学時から競い合い、支え合い、桑田は戦後最多20勝、清原は史上最多13本塁打を残した。甲子園最強のコンビ。だが、引退後も球界の内外を超えて活躍する桑田に対し、2016年2月に覚醒剤所持で逮捕された清原は社会復帰の道を探る。

 桑田 引退した頃から、キヨに対する変なうわさを耳にするようになりました。その度に電話をかけたり直接会って、「大丈夫か、気をつけろよ」と言ってきました。しかし、最後に彼は「オレのことはもう放っておいてくれ」と言ってきました。

 これが最後に交わした言葉だった。桑田は清原に手厳しいことを言い続けたが、思いは実らなかった。

 桑田 あの時、ふと考えたのは、僕たち2人で野球界のために力を尽くす姿が、この先イメージできなくなったということです。僕には日本の野球界をより良いものにしたいという目標がある。そのためにも、彼が復活することを願っています。それまでは、僕なりの方法で野球界に貢献していきたい。

 9年前、2人の道が重なり合ったときがあった。08年7月29日のスカイマークスタジアム(現ほっともっと神戸)。前年夏の左膝軟骨移植手術から再起し、同31日に1軍合流が決まった清原が「桑田のボールを打って1軍に上がりたい」と打撃投手を依頼した。その年の3月に引退を表明した桑田は「キヨのためなら」と応じ、パイレーツのユニホームを着てマウンドに立った。2人の恩師、PL学園元監督の中村順司が明かす。

 中村 「キヨに投げるんだから、失礼なボールは投げられない」と桑田は練習を積んでいったそうです。

 走って下半身を作り、投球練習も重ねて準備した桑田との時間を、清原は「生涯最高の練習だった」と言った。全38球の最後の7球は真剣勝負。94年の巨人-西武の日本シリーズ第5戦でバックスクリーンにたたき込まれた真ん中高め直球を投げ、その球を清原は空振りした。

 その直後「ありがとうな」の言葉に、桑田は面食らった。「もう1球や!」と食らいついてきた昔の姿は、もうなかった。「ほんまに引退するんや」。寂しさで涙があふれ、それを見られまいと、後ろを向いてプレートを直すふりをした。8月3日に清原が表明する引退を、桑田はそのとき悟っていた。

 桑田 キヨと出会わなければ、僕はここまで成長できなかった。あんなすごい打者がそばにいるわけですから、この打者は何を考えているのか、どんな技術を持っているのか全部分析しようと思いました。キヨを抑えられたら他の打者は簡単だと考えたからです。僕はキヨがいてくれたから、高校3年間に投手に必要な勉強ができた。だから、キヨとの出会いに僕は感謝しかない。もし出会わなかったら、全く違う人生になっていたと思う。僕のキヨへの気持ちは、今も変わらない。本当の彼を一番知っているから。

 野球だけではない清原の能力を、桑田は知っている。並外れた力を清原が再び発揮できたとき、2人の道はまた交わるかもしれない。(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年6月11日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)