初の全国制覇を果たした翌年の1948年(昭23)、福嶋はさらに快挙へと向かっていく。春のセンバツでは初戦で京都一商に敗れた。だが、2-3での惜敗。福嶋は10安打を浴びたとはいえ、延長13回の戦いだった。しかも、その京都一商は勝ち進んで優勝。ナインは夏へと気持ちを切り替えた。

 主力メンバーも前年主将を務めた宮崎康之が抜けたくらいだった。変わらぬ猛練習の日々。福嶋の1学年上で捕手の原勝彦は振り返る。

 原 コントロールをつける練習として、最後に構えたミットに10球連続で来ないと終わらないことにしてました。10球目でもミットに来なければわざと捕りませんでした。福嶋はマウンドから走って球を取りに行ってました。

 今は捕手の背後にネットがあるのは当たり前だが、この時代にあるはずもない。福嶋は先輩の原が捕球しなかった球をダッシュで拾いに行くしかなかった。

 頭脳的な投球も、より磨きがかかった。小倉高校といえば、北九州市では進学率トップクラスの公立校。1試合で投げる100球から120球すべての配球を覚えた。なぜ抑えられたのか。反省を繰り返した。頭の中ですべて整理整頓され、勝負どころをかぎ分けるようになっていた。

 迎えた夏の甲子園。8月14日の初戦、丸亀戦で2安打完封のスタートを切った。翌15日の日刊スポーツには「丸亀は福島(表記は当時のまま)のチェンジ・オブ・ペースに抑えられ」とある。16日の大分二戦では打線が爆発。12-0の圧勝で、福嶋も被安打2、二塁を踏ませない快投だった。準々決勝の関西戦は1点を争う展開に。福嶋は1回無死二、三塁のピンチを背負うが、スクイズを併殺に終わらせると波に乗り、ここでも0行進。準決勝も4-0で退けると、20日の決勝、桐蔭戦にコマを進めた。

 大舞台で福嶋はまさに真骨頂と言える投球をやってのけた。相手の狙いをたくみに外し、80球での完封勝利。ナインで不思議と点が入り「ラッキー6」と呼んでいた6回に押し出し死球で得た1点を守りきった。

 当時史上5度目となる2年連続での夏優勝。しかも、39年夏の海草中・嶋清一に並ぶ全5試合連続完封でやってのけたのだ。45イニング無失点。福嶋はこの快挙をチーム記録だと思っている。小倉の失策は5試合でわずか2だった。

 福嶋 あのひのき舞台でプレーできたのは一生の思い出ですよね。学校の教科書では学ぶことができない。甲子園とはそういうところ。全員が自分のポジションに責任を感じることをたたき込まれました。

 終戦直後、日本が焼け野原から立ち上がろうとするとき、娯楽も少ない時代で多くの人にとって福嶋は光だったのかもしれない。食料もない、モノもない。数少ない明るい話題を振りまく存在だった。(敬称略=つづく)

【浦田由紀夫】

(2017年6月17日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)