終戦直後にヒーローとなった福嶋だが、野球が好きだからこそ、猛練習も苦に思わなかった。到津小時代は、九州実業団の「早慶戦」と呼ばれた八幡製鉄(のちの新日鉄八幡)と門司鉄道管理局との「製門戦」に通った。戦時中は「敵性スポーツ」として野球の公式戦が開かれず、戦争が終わっても、柔剣道は禁止された時代。福嶋が振り返る。

 福嶋 とにかく野球がしたいわけですよ。でも道具はない。みんなが思い思いで道具をつくっていた。ボールは自分たちでつくるし、グラブもあっても布製でしょう。ボールを受けるところだけが革ですから。

 硬球は当時高級品だったため、練習用は「自家製」だった。朝日新聞社、日本高野連が発行する大会史では、46年夏の大会を再開する際、苦しい食料事情とともに「用具も悩みだった」とある。さらに「ことにボールにこと欠き、第1次予選はやむを得なければスポンジボールで切り抜けても…との決心で準備された」と記述されている。46年の夏は、福嶋が九州勢初の全国Vを果たす前年の夏で、控え選手として登録された大会である。

 福嶋 例えば、ぼろ切れを丸めて、ひもで固く縛ったり、糸があれば巻いていた。飛ぶことはないんですが、そういう時代ですよ。

 バットは木製で折らないように大事に使った。ヒビが入ってもテープなどで補修して使っていたという。

 福嶋 苦楽をともにした仲間と一緒に戦って甲子園に行ける。こんな幸せなことはないですよ。今は野球留学などで地元以外の選手が入ることはある。当時はもちろん、そんなことはないから、下手をすると小さいころからいつも一緒だった仲間と同じユニホームを着ることになることもある。苦労したからこそ、団結することもあると思いますね。

 食料もなかった。

 福嶋 イモが食べられたら裕福な方だった。我々はカボチャが多かったし、イモでもツルまで食べていた。今では聞いたことがないと思いますが「こうりゃん」というものを食べていました。牛とか馬とかに与える飼料みたいなものです。

 「こうりゃん」とは「トウモロコシ」の方言だったり、イネ科の穀物をさすといわれている。福嶋の記憶はさだかではないが、いずれにしても食べ盛りで育ち盛りの高校生に物足りなかったはず。それでも福嶋たち高校球児はへこたれずに野球に打ち込んだ。

 甲子園ではどうしていたのか。補欠で出場がなかった46年夏は、主力メンバーのためにもう1人の最下級生と2人でよく闇市に買い出しに行ったという。

 福嶋 当時の宿舎近くの西宮北口の闇市にコッペパンを買いに行きました。やっとの思いで買ったのは10個。レギュラーの口に入るくらいで私らまでは回りませんでした(笑い)。

 福嶋がエースとなった47年春以降は、「負けたチーム」に支えられた。

 福嶋 (当時は)配給米を持って行きました。でも勝ち上がっていったんで、足りなくなるんです。負けた相手チームから「米が余っているから」と我々に分けてくれることもあった。「自分たちの分も頑張ってくれ」という意味で「自分たちの米を食べて戦ってくれ」ということですよね。なかにはコッペパンなんかも、もらったりした。もう、ごちそうですよ。

 自分たちが故郷に帰って食べればいい「お米」なのに自分たちに勝ったチームに分け与える。グラウンドでは戦うが、ゲームセットになれば同じ高校生として助け合っていた。

 福嶋 もう80歳を超えてますが、自分では健康だと思ってます。普通に過ごせている現代ですから、それで十分です。

 今の時代からは想像できない苦労。だからこそ、福嶋の言葉には「普通に過ごせる幸せ」の重みがある。

(敬称略=つづく)

【浦田由紀夫】

(2017年6月19日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)