〈出来ることなら、あの94球目をもう1度投げさせてやりたい〉

 これは日刊スポーツ大阪本社記者3年目の町野直人が思いを込めた記事の書き出しで、こう続いた。

 〈大正4年、豊中球場で産声をあげて64回を数える今大会で、初めての完全試合が“あと1人”で達成されようとしていたのだから……〉

 82年8月8日。佐賀商の右腕、新谷博が木造(青森)戦で無安打無得点試合を達成した。このとき球場内で第2試合への出番を待っていたのが池田と静岡だった。畠山の甲子園初マウンドの直前のことだ。

 新谷は9回2死まで完全だった。大会第2日、午前8時開始の第1試合は回が進むにつれて、球場が異様な空気に包まれた。9回表は木造の先頭打者川内福一が三遊間へ安打性のゴロ。これを佐賀商遊撃手の小林満喜が美技で一塁送球アウト。続く木村武史が三振で2死となり、代打の世永幸仁。右打ちの世永の内角をついた新谷の投球が死球となった。パーフェクトはならなかった。

 待機していた畠山は、そのときのことをこう振り返った。

 「パーフェクトが続いているという情報が入り、すごいなあと思っていました。全国大会になると、おー、すごいのがいるんだね、と」

 当時は次に試合をする学校は、進行中のゲーム情報を得ながら、5回の前くらいに球場入り。内野スタンド下に位置する委員通路の長いすに座るなどして取材を受ける。テレビの実況中継にかじりつくこともかなわず、池田の選手たちは、時折ドッと沸く球場の変化に、ピクリと反応していた。「9回の最初のワァーはショートのファインプレー。2回目のワァーはデッドボール。それまで味わったことがない雰囲気だった」と当時2年生で控え捕手だった井上知己は述懐した。

 エースの畠山はどうだったのか。

 「そういう試合だから、思ったより早く終わりそうだということを感じていました」

 佐賀商-木造戦のスコアは7-0、1時間31分で終了した。第2試合の選手たちはグラウンドに入った。三塁側ベンチで佐賀商と池田が、一塁側で木造と静岡が入れ替わっていく。畠山も試合への準備を始めた。

 「入ったときに、球場全体が前の試合の余韻というか、ザワザワザワザワしてるという、何かがありましたね。けれどもそれでプレッシャーとかはなかったですね。相手は静岡、そちらに集中していた」

 実のところ、町野の書き出しは木造に対して失礼だ。そこで追加したい話がある。大阪のレース部長などを歴任したベテラン競輪記者の野中武彦が佐賀商OBで、当日試合を見ていた。野中は町野に言った。

 野中「マチノ、見たか」

 町野「はい、この目で。パーフェクトがなくなりましたが」

 野中「そうやない! デッドボールを当てた後の新谷を見たかと聞いとるんや。すぐに帽子を取って謝った。木造高校に申し訳ないと。あれが、佐賀商…」

 葉隠武士だ…とも言ったと尾ひれがついたが、OBの顔は誇りに満ちていたという。(敬称略=つづく)

【宇佐見英治】

(2017年7月7日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)