甲子園で、畠山が投げるときがついにやってきた。74年に池田の「さわやかイレブン」を応援するために、少年野球チームの一員として訪れて以来の甲子園。82年夏。池田のエースとして、何を感じていたのか。

 「初めてマウンドに立ってみて、キャッチャーとの距離感が、今まで僕らがやっていた球場とはまた違う雰囲気だったので、新鮮でした。投げやすかった、と思います。あんまりストライクは入らなかったので偉そうなことは言えないですけど。キャッチャーの後ろは観客席ですから、受け手が手前に見える感覚。1球目はどうしようかとバッテリーで言っていたんですよね、バックネットに投げようかとか。実際に投げたのは真っすぐ。当然真っすぐです」

 1回戦は好投手大久保学がいた静岡を相手に5-2で勝った。先に1点取られたものの、中盤に5点を奪い逆転した。

 「試合途中、5回か6回くらいにボーッとなったっていうか、なにか慣れてきたのもあって脱力感みたいなのが出たんです。ふにゃーとなって、もう1回巻き直した。最初が緊張しすぎていたのでしょうね。緊張が解けたときに、そんなことになった」

 静岡戦の最高球速は142キロだったとされる。三振は11奪った。ベールを脱いだ池田のエースは、評判を高めた。

 「でもそんなにボールは走ってなかったと思います。あまり調子はよくなかったんです。肩も痛いなと思いながらずっと投げていたので。徳島大会のときからそうでした」

 球速に関しては大会中にこんなエピソードがあったという。2回戦の抽選で相手が日大二(西東京)に決まったのは11日のこと。池田の練習場に日大二の偵察がやってきたようで、スピードガンも持参していたらしい。

 「うちの先生(蔦文也監督)は、いいよ、測っとけという。146キロとか出ていたようです」

 蔦が無頓着のように思えてしまうが、そうではない。蔦は大事なところを逃さず見ている。83年夏の甲子園出場時に、こんなこともあった。

 畠山たちの次のチームは、水野雄仁がエースになった。当時、池田は宿舎の網引旅館近くにある西宮東高校グラウンドで練習をすることが多かった。一塁側にブルペンがあり、蔦は普段は三塁側寄りで全体を見渡している。ブルペンで投球練習していた水野が30球ほど全力で投げた。蔦は選手のバッティングを見ていたはずだ。そして蔦がブルペン方向へ歩を進めたとき、水野がちゃめっ気を出す。「あ、ブンが来よる。見せんとこ」と投球をやめてしまったのだ。ブンとは蔦文也の「文」で、生徒間での呼び名。蔦はどうしたか。仕方なくきびすを返しながらボソリと言った。「本日の水野くんは全力投球30球じゃ。ボールもよう走っとった」。水野は「蔦先生は後ろにも目がついている」と、一本取られたことを認めた。

 畠山データを収集にきたという相手にも蔦らしい対応で、日大二には4-3で勝った。(敬称略=つづく)

【宇佐見英治】

(2017年7月8日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)