池田の練習で畠山は、ブルペンよりシート打撃で投げるなど実戦形式での投球が多かったという。

 「休む間がなかったというか、肩を休めるのはめったになかったので、痛みとか張りとかは、ずーっとあって、慣れればいけるかなとやっていました」

 畠山にとって82年夏に出場した最初で最後の甲子園は、投球に関しては満足するにはほど遠い中身だったようだ。

 「投げる方がよくなかったから、そのことに頭がいっぱいだったのかもしれないですね。もうちょっといいピッチングをしたかったなと、あのときは終わってから思うんです」

 チームには当時2年生の水野雄仁や江上光治もレギュラーに入ってきていた。

 「水野も江上も含めて、徳島大会でそこそこ打てていましたが、甲子園でみんながあんなに打つとは思わなかった。僕が一番打てなかった。(決勝でダメ押し弾を放ったが)たまたまですね。まあ、ずっと引っ掛かってたのがあれで吹っ切れて良かったのかな、と思いました。水野や江上の2人については、水野は力があるなと思っていたんです。江上があそこまで打つとは予想していません。江上が打ったから、みんな打てるぞというように、打線が乗ったっていうところはあります。2番(多田慎治)と3番(江上)が打って、5番(水野)が打って、さらに後ろが全部打ってくれた。打ってないのは1番(窪靖、主将)と僕くらい。早実戦でもあんなに打つとはみんな思っていなかったんです。準々決勝で早実と当たる。もういいかな、これで最後になるかもしれないって」

 準々決勝の早実(東東京)戦。1回から池田打線が爆発した。3番江上が先制2ラン。2回には3長短打など3点を追加。6回には水野が2ランを放った。20安打で14点を奪い、早実に圧勝した。準決勝の東洋大姫路(兵庫)は4-3での勝利だった。

 「早実を破っても優勝への意識はしていなかった。早実に勝って、準決勝は東洋大姫路。タイプが違う、一戦必勝で行ってました。ただ、さすがに決勝のときはね、優勝を意識しました」

 畠山は優勝へたどり着くまでにすべてを出し切っていた。

 「終わった瞬間は、燃え尽き症候群ですね。日本選抜にも選ばれましたが、大輔(荒木=早実)、野中(徹博=中京)、新谷(博=佐賀商)がいて、先生(日本選抜監督の蔦文也)がお前はもういいよって」

 日本一を経験した剛速球右腕の畠山は、当時と現在の野球を見比べている。

 「僕の高校時代は、土日が試合で、その前の木金にシートバッティングすると、4連投となります。甲子園では3連投4連投、県大会でもそうしなければならない。となると、毎日が優勝するための、練習から3連投4連投のリズムなんです。だから連投には慣れている。過酷なことではあるけれども、なんとも思わなかった。休ませるところはしっかり休ませないといけないというところはあるが、これからの時代どうなっていくのか興味ありますね。高校野球も球数制限とかしていくと、昔みたいにエースで4番でずーっと1人が投げるのではなく、ピッチャー3本とかいないと勝ち上がれないということになってくるじゃないですか」

 そして続けた。「変わるんだろうなと思いながら見てるんですけどね、野球も」-。(敬称略=つづく)

【宇佐見英治】

(2017年7月10日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)