池田の後輩たちが、久々に甲子園の土を踏んでいた。14年センバツの3月22日。畠山は甲子園のアルプススタンドにいた。小学校時代の74年春に、少年野球チームの仲間とそろいのユニホームで訪れ、選手11人で戦う池田を応援して以来だった。

 82年夏に池田が畠山たちで初めて甲子園大会を制した後、翌83年春には連続甲子園優勝を飾り、86年にもセンバツで頂点に立つなど、池田はしばらくの間そのときどきのカラーで甲子園を沸かせた。その後は徳島内の勢力図も変化し、池田は春が87年、夏は92年の出場後、全国大会から遠ざかっていた。久々の出場が14年春となったから、春に限れば27年ぶり。長い時が流れていた。

 アルプス席に、甲子園に出場した選手やそうでない者、懐かしい顔が集まっていた。グラウンドでは、自分たちの時代と同じデザインのユニホームを着た平成の池田ナインが、海南(和歌山)と戦っていた。

 「スタンドはお客でどんどん埋まっていって満員になりました。池田をみんなが応援しているような、観客の姿を見て、さまざまな声を聞いたときに、池田高校っていうのは愛されているのかなあと、ちょっと感動しました。8回、9回に大反撃してサヨナラ勝ちしたところは、前が総立ちで見えなかったくらいです。僕らが立ってしまうと周りに迷惑。だからグラウンドの動きを確認できないまま、スコアボードを見て、あっ、点が入ったんやとか、そう反応するという状況でした。9回は手拍子が周りから起こっていましたね」

 甲子園はワクワクする所だと、畠山は周囲の旧友たちと気持ちを同じくしていた。

 「いやあ、やっぱり、高校球児が夢に見て、行きたいという神聖な場所だと思いますね。甲子園っていうのはそれだけ人を大きくしてくれるかもしれない。いい勉強をさせてもらえます。出るまでの過程もそうですし、僕なんかみたいに、最後の最後まで出られなくて負けているときもずっと、あとで振り返ればいい勉強をしている。出たときも、必ずいい経験になる。数多く出られるのがベストだと思うんですけど、1回も出られずに高校野球を終わったとしても、みんな夢見てるじゃないですか、甲子園に行きたいと」

 池田を卒業して南海に入団してプロとなった。1年目にウエスタン・リーグで甲子園の試合があった。観客は高校野球のときほどいなかったが、甲子園のマウンドの感触を再び味わったこともある。打者に転向、さらに大洋に移籍したときはテスト入団から巻き返した。セ・リーグ公式戦の阪神戦で甲子園へ来ても、懐かしさを味わう余裕はなかった。その日なんとか打たなければという気持ちだけだった。

 高校野球と甲子園の関係は、やさしさに思える。

 「甲子園って、あそこでプレーしてどうのこうのっていうより、目標になるし、いい経験をさせてもらうし、勉強させてもらうってことだと思います」

(敬称略=つづく)

【宇佐見英治】

(2017年7月11日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)