80年8月11日、大会4日目の第2試合、背番号「11」の1年生エース、荒木を擁した早実(東東京)は、北陽(大阪)戦に臨んだ。

 試合前、優勝候補の北陽のシートノックを見て、荒木は絶望していた。

 「すごかった。肩も強いし、大きく見える。体も。それは覚えている。そこから、マウンドに行ってからが全然覚えていない」

 灼熱(しゃくねつ)の甲子園。気が付くとスコアボードに「0」が並んでいた。被安打も「0」だった。

 「5回か6回か、気が付いたら中盤ぐらいだった。緊張して、頭の中は真っ白。記憶がない。どういう風に投げたとか、どう打ち取ったとか、まったく覚えていない。天気が良かったのは覚えているけど、暑さも全然覚えてない」

 クールな表情でテンポよく投げ込む1年生。当時のスピードは「130キロ後半ぐらいだったと思う」。外角に伸びる直球は、ナチュラルにシュートして、打ち気な打者の芯を外す。大きく割れるカーブを織り交ぜ、凡打の山を築いた。

 6回無死から三塁内野安打を許すまで、無安打投球。5回までの15アウトの中で、二塁ゴロが7個あった。二塁には、同じ1年生でレギュラーをつかんだ守備の名手、小沢章一(享年41)がいた。打たせて取る、荒木本来の投球だった。

 4万4000人の観衆が、スーパー1年生の投球に引き込まれていく。結局内野安打1本に抑えて、9回111球を投げ、4奪三振完封。6-0で優勝候補を破り、聖地は異様な興奮に包まれた。

 「ただ一生懸命投げていただけだから。キャッチャーのサインのまま。いろいろなことが、信じられないまま進んじゃっている。甲子園に来た時点で信じられないのに、それが勝ってしまって。まして完封…」

 現実を受け止められないまま、宿舎に戻ると、世界が変わっていた。出発時、従業員わずか3~4人に見送られた1年生の帰りを、数百人のファンが待ち構えていた。人垣が宿舎前の道路を封鎖していた。「人が多くて、バスが入れない。玄関に横付けして、ベンチ入りできないメンバーが、立って、ガードして通してくれた」。絶叫にも聞こえる黄色い声援が飛ぶ。わずか2時間9分の完封劇が、“大ちゃんフィーバー”の幕開けになった。

 喧騒(けんそう)は翌日の朝も、夜も続いた。宿舎の前から、ファンが離れない。「そこからは缶詰め状態。外出禁止とは言われなかったけど、どう考えたって、外には出られない」。

 朝の散歩と練習以外は宿舎にこもった。唯一のリラックス方法だった駅前のドーナツ屋にも行けなくなった。

 5日後の2回戦は、東宇治(京都)を相手に8回1/3を3安打無失点に抑えた。3回戦は札幌商(南北海道)を4安打10奪三振で完封。スポーツ紙の1面を連日飾り、フィーバーは日増しに過熱した。荒木に会うまで帰らないと宿舎に入り込む女性も現れた。そんな中、無心の投球を続けてきた1年生エースは、相手打者を抑えるコツをつかみ始めていた。(敬称略=つづく)【前田祐輔】

(2017年7月14日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)