1年生エースとして初めての甲子園で準優勝し、東京に戻った荒木の生活は一変した。

 自宅の電話は鳴り続け、学校にはファンレターが入った段ボール箱の山ができた。当時の電話帳には、自宅の住所や電話番号が記され、個人情報などという概念はなかった時代。

 「おふくろが電話番号変えたって言っていた。昼間は家にいないから分からないけど、日中から電話がすごかったみたい」

 「東京都 荒木大輔様」と書かれた住所なしのファンレターも自宅に届くようになった。全国の郵便局員も「荒木大輔」の名前で、すべてを理解する。高校野球界に誕生したアイドルは、異常とも言えるフィーバーの真っただ中にいた。

 荒木は当時、自宅から吉祥寺経由で、東西線の早稲田駅にある学校まで通っていた。「みんな駅で待っていたりして。電車に乗るのが大変だった」と混乱は早朝から続いた。授業後は武蔵関にあったグラウンドまで再び電車で移動する日々。自宅までついて来るファンに危険を感じて、自転車で猛スピードを出して振り切ったこともある。常に女性ファンに囲まれる環境が続いていた。

 動き出したのは仲間だった。

 「そしたら、すぐだよ。お願いしてないのに、同級生が同じ電車に乗るようになった。野球部だけじゃなくて、ラグビー部とか。5~6人が周りに立って、必ず一緒に乗ってくれた。あいつらがいたから、囲まれるとかはなくなった」

 屈強な男たちが、荒木の周りを常に囲んで守った。

 後にバッテリーを組んだ松本達夫は「ごく普通のシャイな人間なんですよ。口数は多くないけど、自分の考えをしっかりと持っていて。まったく嫌みがない。非常に純粋な人間でしたね」と言う。荒木は、レギュラーメンバーの練習に参加後も、帰る前は必ず1年生が雑用をこなすグラウンド脇の小屋に寄った。「ボールを磨いたり。雑用もやったつもりだけど、あいつらはお前はやってないって言うんだ。それはそうだと思う。やっているつもりでも、あいつらに比べたらやってない。ボールで遊んでたかもしれないし」。

 ただそういう姿勢は、同級生も敏感に感じ取っていた。

 松本 グラウンドに出る時は、必ず僕ら選手で人垣を作って、走ってバスに乗る荒木を誘導するのが日常でした。甲子園でも、どこに遠征に行ってもそういう状態。警備もない時代でしたからね。自分たちで守るっていうのがありましたよね。帰る時も同じ方向のやつが必ず同じ電車に乗って、同じ所にみんないるようにしました。ごく普通に。自然な感じでしたけど。

 仲間に恵まれた荒木は、翌年のセンバツに向けて再び練習に熱を入れる。

 3年生捕手のサインに首を振らずに投げ続けた1年夏は終わった。1年秋からは同期生の松本が捕手に転向した。

 松本 「びっくりしましたね。受けてみて。ストレートは大してびっくりしないんですよ。カーブが捕れないんです。分かっていても、ミットの網に引っ掛けるのがやっと。恥ずかしながら、切れがすごかった。カーブというと、ここまで曲がるだろうっていう範囲を、もう少し曲がる。鋭く曲がる。これが荒木の球なんだなって。さすが準優勝ピッチャーと思いました」

 荒木は1年秋の秋季東京大会も1人で投げ続けた。激戦の東京を勝ち抜き、2季連続となる春のセンバツ出場を決めた。ただ、酷使を続けた16歳の体は限界に近づいていた。のちのプロ入り後も苦しんだ箇所が、痛み始めていた。(敬称略=つづく)【前田祐輔】

(2017年7月17日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)