高校生にとって最大の勝負となる3年夏、荒木は再び甲子園の切符を勝ち取った。1年夏から5季連続甲子園出場の偉業。優勝候補として聖地に戻った早実は、順調に勝ち進んだ。

 1回戦の宇治(京都)戦で、荒木は甲子園初本塁打を放った。大先輩のOB、王貞治(ソフトバンク会長)から贈られたバットで、ラッキーゾーンにたたき込んだ。2回戦の星稜(石川)戦、3回戦の東海大甲府(山梨)戦で連続完投し、準々決勝に駒を進めた。

 相手は「やまびこ打線」の優勝候補、池田(徳島)。2回戦で日大二(西東京)に4-3の接戦に持ち込まれるなど、打線の調子は上がらず、当時日大二より力があった早実にとって、恐れる相手ではないと士気は上がっていた。ただ、荒木は「みんなすごい体だった。ユニホームがパツンパツン。打ってはないけど、しっかりと振っている。そういう怖さはあった」。

 82年8月18日、池田戦のプレーボールがかかる。

 荒木は立ち上がりから、ボールの切れがなかった。連投の疲れか、1年から投げ続けた蓄積疲労なのか。試合開始直後、打席に立った池田の1番窪は「普通のピッチャーだと思った」と、後に早実ナインに語っている。そして1死一塁から、3番江上に決め球カーブを右翼席に運ばれた。事前のデータで、江上はカーブが苦手だと分かっていた。

 早実捕手の松本は「インコース寄りで、厳しくはないけど、甘いコースでもなかった。あのホームランで、これは勝てないと僕は思いました。ショックでした。カーブを打てない江上に、決め球のカーブを打たれてしまった」。荒木がカーブを本塁打にされたのは、甲子園ではこの1本だけ。それほどの衝撃だった。

 1日2時間の練習で甲子園に乗り込んだ早実とは対照的に、蔦監督(享年77)率いる池田は最新のウエートトレーニングを取り入れるなど、厳しい練習で体を鍛え上げていた。のちに南海入りするエース畠山は最速148キロを誇った。その畠山を打撃投手にして、池田は打ち込んだ。荒木の140キロ前後の直球は、打ちごろのボールだった。

 荒木 大人が金属バットで打っているような感じ。投げ方とか、高校野球で抑える感覚が分かっていたものが、ものの見事に打ち砕かれたのが池田だった。今までだったらゴロやフライになるものが、全部スタンドに行ったり、外野の間を抜けた。ボールをシュートさせようが、あいつらには関係なかった。

 2回までに5失点すると、2点を返した6回に再び衝撃の1発を浴びた。2死一塁から、当時2年生だった5番水野(元巨人)に、バックスクリーン左に特大2ランをたたき込まれた。

 「外の真っすぐ。そんなに悪いコースじゃなかった。それを軽々中段まで運ばれた」。早実中堅手の岩田は、打った瞬間はセンターライナーかと思ったという。それがグングン伸びて中段まで飛んだ。圧倒的な力の差。荒木は7回途中12安打7失点でKOされた。

 マウンドを後に西武でMVPを獲得する2番手投手の石井丈裕に譲り、右翼の守備に就いた。

 「すごく甲子園って、残酷だなって思った。むごいというか。まだゲームやらせるのかと。それぐらい圧倒された。もうコールドにしてもらって、早く終わりたかった。どうやっても、もう勝てないという感じだったから。何でこんなの最後までやんなきゃいけないんだろうって、すごく思ってたの。オレはね」

 だが2番手の石井も打ち込まれる。水野に満塁本塁打を浴びるなど4失点。もう投げるつもりはなかった荒木は、再びマウンドに呼び戻された。(敬称略=つづく)【前田祐輔】

(2017年7月22日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)