香川のデビューは衝撃だった。徳島・阿波町(現阿波市)生まれで、小2の時に父昌男の仕事の関係で大阪市内に移り住んだ。77年4月に大体大付中から浪商進学。その入学式翌日、いきなり本塁打をかっ飛ばしたのだ。

 4月10日、春季近畿地区大会大阪大会の初戦、北陽戦だった。浪商が3-2で勝ち上がったが、新入生の香川は上級生を押しのけて先発マスクをかぶると、打球をスタンドに突き刺した。

 同じ捕手で浪商に入ってきたのは伊原徹夫(現大阪市港湾局勤務)だった。後に5年間、浪商監督を務める伊原は、東住吉シニアに所属した楠根中から進学。ライバルとして競うはずだったが、その夢は一瞬にして崩れた。

 伊原 私は体育教師になりたかったので体育科の枠のあった浪商にいったんです。中学時代から香川の名前は知っていたが、甲子園に出たいと希望に燃えてました。浪商に合格して野球部にあいさつにいったときに「すごい選手が上がってくる」って聞いた。それが香川です。ぼくだってそこそこ頑張れると思ってました。でも、そんな気持ちはすぐに吹っ飛びましたよ。

 当時の浪商は大阪府の北摂に位置する茨木市(87年熊取町移転)にあった。左翼90メートル、右翼78メートル。その敷地内のグラウンドで行われた練習初日、香川のバッティングはすさまじかった。

 伊原 すごいとしか言いようがなかった。異様でした。だって内野ゴロがないんです。ほとんどが外野フェンスを越えた。1年生は80人ぐらい入部してきたが香川は初日からレギュラー扱いです。打撃ケージに入って5本5回のバッティング練習をするんですが、大げさじゃなくてほんとに全部ホームランなんです。1度だけケンカしたことがある。香川から「悔しかったら抜いてみぃ」というようなことを言われた。ぼくとしたら腹立つ思いはあったけど、負けを認めざるを得なかった。入学式の翌日にゲームにでてホームランですから。あり得ませんよ。

 浪商は78年センバツに出場する。香川にとって初めての甲子園で、伊原は背番号「13」をつけた控え捕手としてベンチ入り。香川は身長170センチ、体重92キロが公称だが、その数字を信じるものは皆無だった。巨体から長打を放つド派手なパフォーマンスで、人気に火がついた。

 それに香川とコンビを組んだ投手は対照的、175センチ、63キロの均整のとれた体つきのハンサム。その同級生が、エース牛島和彦だった。(敬称略=つづく)

【寺尾博和】

(2017年7月25日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)