まさに両雄並び立たずだった。バッテリーだった香川と牛島和彦の関係は微妙だった。会話がないどころか、ブルペンで1度も投げて、受けたことがなかった。練習試合、公式戦だけのバッテリーなど、高校球界では例がないだろう。

 この件に関して香川は亡くなる1年前の13年12月に本紙の取材に語っている。

 香川 牛島とはほんまにしゃべったことがない。だってライバルやもん。おれは、おれの中で一番になりたかった。牛島もそう思っていたと思う。でもそれって、仲が悪いんとニュアンスが違うんや。おれがキャプテンやった3年のときのチームなんてみんなバラバラや。でも試合になれば1つになる。試合のときだけバッテリー組んでそれでも勝った。それがおれたちんときの浪商やねん。

 約40年前の香川との不仲説に、牛島は「これって難しいんですよ」と少し間を置いた後に語り始めた。

 牛島 ぼくもライバルと思ってるわけですよ。でも最初は肩並べてると思ってなかったんです。だって本当に香川ってすごいバッターでしたからね。最近、さまざまな取材で、香川がぼくのことをライバルと思ってたんやということが分かったんです。教室でしゃべることもなかったし、野球部の1年生はグラウンドでしゃべると叱られるし、2年夏を越えないと発言権がない。香川はブルペンに来ないし、なんで来ないんだとも言いたくないし…。そんな状況が続きました。でもお互いが絶対に負けたくないという気持ちは強かったのかなと思います。

 2人は2年から同じクラスになった。その2年2組の担任教諭だった佐藤久夫は、香川が牛島に気遣いをみせていた知られざるエピソードを明かした。

 佐藤 私は数学を教えていましたが、香川は真面目であまり怒られることもなかったので八方美人と思われることもありました。牛島は「寝ウシ」といわれるほど、よく授業中に寝る生徒だった。級長だった香川はいつも牛島のいないときに席替えをするんです。その際、香川は「ウシはよく寝るから、後ろの窓際の席で寝かせてやってくれ」と周囲に理解を求めるんです。すでに2人とももてはやされて難しい存在になっていた。香川は牛島に気を使ってるんだなと思ってみてました。

 浪商は会話のない異例のバッテリーを中心に勝ち上がっていく。1979年(昭54)の第51回センバツに出場。香川は愛知との1回戦で度肝を抜くホームランを放つ。

 牛島 ぼくは5番だったので、4番の香川が目の前で打ったんです。普通の高校生では絶対に打てません。

 ドカベンの奇跡的なアーチにファンは熱狂する。(敬称略=つづく)

【寺尾博和】

(2017年7月28日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)