77年夏に一躍甲子園のアイドルとなった坂本は、周囲の過度な注目に苦しんでいく。もっとも気を使ったのは登下校中だった。唐突にけんかを売られるなど、理不尽な仕打ちは数知れなかった。

 坂本 何で俺だけ? と思うことも、もちろんあった。でも、野球部をやめる環境に置かれていなかった。

 入学から5カ月で人気は沸騰し、残りの2年間は相手ではなく、大きな期待を受ける自分との闘いだったといえる。

 坂本 グラウンドで生き抜くことに必死だった。雰囲気で心臓が押しつぶされるんじゃないかと、思うほどのプレッシャーだった。

 終わりの見えない練習に向き合った。延々と続くランニングメニューに、個人ノック。「今、何本とか考えなかった」と、数えることもできないほどハードだった。練習試合のあった日でも、登板がなければ、試合をしている横で、坂本は走り続けた。

 励みは、ファンからの声だった。「頑張ってね」「また甲子園に行ってね」…。重圧に苦しみつつ、声援は心にしみた。ただ、結果は出なかった。

 2年生となった78年の夏、東邦は愛知大会の決勝で敗れた。中京(現中京大中京)を相手に1-2。被安打7。奪った三振は1。坂本は完投したが、1-1の7回裏に勝ち越されての敗戦だった。

 くしくも、高校野球最後のゲームは、宿敵と位置づけた相手だった。3年生の夏。2戦目(3回戦)で名古屋電気(現愛工大名電)と激突した。1学年下のアンダースロー投手が先発に起用され、試合は0-0と緊迫した展開で進んだ。動いたのは8回裏。ついに後輩が崩れ、名古屋電気に1点を奪われた。

 もう点を与えるわけにはいかなかった。ベンチが動き、坂本は8回2死三塁からマウンドに向かった。3球で後続を仕留め、追加点を許さなかった。最少失点で9回表の攻撃に望みをつなげた。しかし、0-1のまま試合終了。「3球しか投げられなかった夏だな…」。聖地に「バンビ」が戻ることはなかった。

 坂本 嫌なこともあったけど、街中で「頑張れ」と言われるのは本当にありがたかったです。でも、1年以降は甲子園に1度も行けなかった。たくさん応援してもらったのに、本当に申し訳なく思いました。

 東邦卒業後、法大に進学。さらに、社会人野球の日本鋼管(JFE西日本)へと進んだ。しかし、思うような成績を残すことができずに、今は名古屋市に本社を置く岡谷鋼機に勤めている。あの夏から40年。55歳になった今だから、語ることのできる言葉がある。(敬称略=つづく)

【宮崎えり子】

(2017年8月10日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)