1938年(昭13)、夏の甲子園の初戦敗退で海草中は短い夏を終えた。突然の乱調でサヨナラ負けを招いたエース嶋への風当たりは強かった。嶋は家にこもり、悩み、苦しんだ。そんな嶋を案じたのは、海草中、明大を通じて生涯の友となる古角俊郎だった。

 和歌山の那智勝浦町で生まれ育った古角は新宮中に入学し、野球部で甲子園を目指した。だが海草中や和歌山中とは実力に開きがあった。2年で古角は海草中に編入し、嶋と出会った。古角は、海草中野球部の生みの親である医師、丸山直広の家に下宿。丸山の長女、橋爪喜久子が嶋、同期の加茂国造らを交えた当時のだんらんを語る。

 橋爪 古角さんはうちに4年間下宿され、その間は1週間に1回は嶋さんや加茂さんがうちに来られて夕食をご一緒してました。古角さんはちょっと怖かった。嶋さんは優しかった。体が大きく、大きな足の上に乗せてもらって家中を歩くのが私は大好きでした。

 丸いロイド眼鏡の嶋は優しい顔で喜久子ら丸山家の子供たちの相手をしてくれた。だが、甲子園で自滅した失意で、嶋は丸山家からも遠ざかっていた。

 丸山は古角、そして嶋がかわいがっていた喜久子を会いに行かせた。今から79年前。小学生のときの残暑の光景を、喜久子は鮮明に覚えている。

 後部座席に喜久子を乗せ、自転車を走らせた古角が、家の玄関口から、嶋の名を呼んだ。玄関口にたたずむ嶋。傷ついた友人の心を思いながら、古角は熱く語りかけていた。

 橋爪 よく(嶋さんはこもっていた自宅から)出てきてくれました。よく、立ち直ってくれました。また野球部に戻ってくれました。

 古角の長男俊行は、当時の嶋の苦境を思った。

 古角俊行 野球に取り組む姿勢も能力も素晴らしい選手やったけれどなかなか優勝できず、気が弱いだとかいろいろ言われて。プレッシャーとかいろんなことがあったと思います。それを打ち破って全国制覇した喜びは大きかったと思います。

 再び野球部に戻ってきた嶋は、新チームの主将になった。ただ、最終学年の春も結果は残せなかった。39年の選抜大会は1カ月半ほど前に左腕を負傷した影響で、十分な調整すらできなかった。初戦の相手は中京商(愛知)。血豆が破れ、投げるたびに左手に激痛が走った。2-7で敗退。だが、左腕エースは試練に次ぐ試練を乗り越えた。同年夏。一気に頂点へと駆け上がった。

 1回戦 5-0嘉義中

 2回戦 5-0京都商

 準々決勝3-0米子中

 準決勝 8-0島田商(無安打無得点試合)

 決勝  5-0下関商(無安打無得点試合)

 全5試合、45イニングで被安打8、奪三振は57を数えた。先頭打者を出したのはわずか3度。投げるだけではない。嶋は打者としても一流だった。5試合の打撃成績は20打数11安打の打率5割5分。11安打は戦前の最多安打記録。主将として、エースとして、4番として悲願を達成した。

 古角俊行 その夏のあと、嶋さんは勝浦まで遊びに来られて、那智の滝の近くで父と撮った写真が残っています。和やかなほっとした顔をしておられました。

 しかし、暗い時代が訪れようとしていた。この年の9月に第2次世界大戦が始まった。

(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年8月16日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)