1940年(昭15)、嶋清一は海草中で苦楽をともにした中堅手、古角俊郎と明大に進学した。明大野球部監督で元海草中監督でもあった谷沢梅雄が、2人の入学を熱望。野球部の生みの親で医師の丸山直広も後押しした。ただ、丸山には気がかりがあった。長女の橋爪喜久子が、父の心配を明かした。

 橋爪 嶋さんはお酒が好きだったし優しい人だったから、プロ野球から誘惑があるのでは、とずいぶん心配していたんです。

 丸山の心配は現実になる。明大予科2年のとき、嶋はプロの入団交渉に応じ、中退寸前で丸山に止められた。説得を聞いて野球部にとどまったが、大学野球に没頭できない時局になりつつあった。41年のことである。12月8日、真珠湾攻撃。日本は太平洋戦争の泥沼に転がり落ちていった。

 すでに甲子園は、冬の時代を迎えていた。その41年の夏、すでに地方大会が始まっていたにもかかわらず、甲子園大会は中止になった。7月18日に誕生した第3次近衛内閣が臨戦態勢をとり、学徒を居住地に足止めするための判断だった。海草中は、嶋が最終学年で全国制覇を達成した翌年の40年夏もエース真田重蔵を軸に優勝。41年も夏3連覇を狙える戦力を持ちながら時局にほんろうされ、涙をのんだ。

 43年に嶋は明大の戦前最後の主将に就任したが、白球を追えたのはつかの間だった。9月に「学徒出陣」で嶋、古角らは繰り上げ卒業となった。

 その中で嶋はあることを決断する。なんと結婚だった。12月の海軍・大竹海兵団への入隊を控えた同年11月のことだった。嶋の評伝「嶋清一 戦火に散った伝説の左腕」を書いた山本暢俊は、夫人のその後の人生に配慮し、「よしこ」と仮の名で記した。橋爪喜久子はよしこを覚えている。

 橋爪 きれいなお嬢さんでした。うちの家にも何度も見えて。甲子園の嶋さんの活躍を見ておられて、よしこさんの方から結婚を望まれた。押しかけ女房だったんです。父は仲人を頼まれたんですが、結婚には反対だった。戦争から帰ってきてからすればいいじゃないかと。うちのお隣の方がよしこさんのお父様とご縁があって、その方が仲人をされました。

 嶋の生活力、資産家の娘のよしこと経済的に苦しかった嶋家との生活レベルの違い、入隊間近という数々の困難も、2人は乗り越えた。せっぱ詰まった時期の突然の結婚について、山本は「嶋自身はずっと丸山の家庭を見てきて温かい家庭への憧れがあった。理想の父母に子供たち。だから嶋も早く家庭を持ちたいという気持ちがあったのだろう」と評伝で推し量った。

 結婚後、嶋は広島・大竹から横須賀を経て、44年9月に和歌山・由良に駐屯する紀伊防備隊に移った。和歌山市内に住んでいた新妻を呼び寄せ、週に1度は新居ですごした。暮れゆく秋を惜しみながら、よしこと紀伊水道を眺めながら浜辺を歩いた。温かな笑みを浮かべて「結婚はええぞ」と周囲にもらすほど、嶋は幸せだった。人生の輝きが、そこにあった。

 12月19日、嶋は命令を受けた。輸送船団を護衛する第84号海防艦への乗船命令だった。(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年8月17日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)