全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える今年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。シリーズ4は「ヒストリー」と題し、これまでの道程を探ります。第1回は、高校野球がまだ中等学校野球と呼ばれた1939年(昭14)夏、第25回大会に起こった異例の事態です。

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東京代表となった帝京商(現帝京大高)が、甲子園の開幕を目前に突然、出場を辞退した。東京がまだ東京府と呼ばれた1939年(昭14)、第25回大会に向けて出陣する、その直前の申し入れだった。

帝京商は創部4年目、部員の中には、のちにプロで大活躍し「フォークボールの神様」と呼ばれる杉下茂(92)の姿があった。当時13歳。1年生だったこの部員の存在が、辞退に大きくかかわっていた。もっとも学校側は辞退の理由を「選手故障のため」とした。

甲子園開幕の6日前、8月7日付の東京朝日新聞(現朝日新聞)が帝京商の辞退を伝えた。「南九州代表は熊工」と報じたすぐ下に「東京代表は早実に変更」とある。小さな1段見出しのあとに、10行ほどでこう書いた。

「さきに東京代表に決定した帝京商は、選手故障のため代表辞退の旨、府体育協会野球部長西村房太郎氏の許(もと)に申し出ていたが、5日の委員会において協議の結果これを受理し(以下略)」。高野連も存在しない時代だった。

この年の東京大会は、神宮を主会場に、48校が参加して行われた。7月23日から2次予選が始まり、帝京商は強打で勝ち進んだ。準々決勝の目白商戦は、11-1。3試合連続となる2ケタ得点で圧勝し、準決勝は早実を9-1で破った。5日間で5試合を行う強行日程の中、決勝では日大三中を相手に初回、いきなり4点を奪った。一時、5-6と逆転されながら、6回に3点を奪って再逆転。9-6で逃げ切った。

初優勝を決めた翌日(29日)の東京朝日新聞には、コーチの肩書ながら、事実上の監督だった御子柴良雄(明大OB)の談話が掲載されている。

「学校の武道場で合宿して、中学野球の本領である精神の昂揚(こうよう)に努め、毎朝、明治神宮に参拝に行きます。甲子園では“東京代表弱し”の汚名を雪(すす)ぐため、ベストを尽くして戦います」。初舞台へ意欲満々だったチームが、突然、辞退を申し入れた。

帝京商に敗れた相手校が仕掛けた、と言う声があったという。杉下氏が、79年も前を思い出してこう話した。「資格のない選手が出ているということなんですよ。それが実は私のことだったんですけどね」。プロ野球通算215勝を挙げ、85年には野球殿堂入りしている。日本球界のレジェンドが、ターゲットは自分だったと明かした。

「私は球拾い。バットを片付けたり、ボールボーイのようなことをしていました。ベンチにはいたけど、試合には出ていないんですよ」。当時の新聞は、準決勝、決勝戦のメンバーを掲載しているが、そこに杉下の名前はない。

出場辞退が決まったあとに、杉下はこんな話を聞いた。優勝決定後、出場選手に加わり、撮った集合写真が無資格選手の存在を証明する材料になったという。「お前も入れといわれて、私も一緒に写真を撮ったんですよ。それを持ち出して無資格の選手が写っているといわれてもねえ」。

帝京商に入学した直後、3月まで在籍した一ツ橋高等小学校に請われて、ある大会に出場した。13歳の少年はいわれるがまま、なんの疑問も持たなかった。それが、初の甲子園を台無しにする大問題に発展する。「選手故障のため」の出場辞退ではなかった。(敬称略=つづく)

【米谷輝昭】


◆優勝校の出場辞退 帝京商のほかに2校がある。1922年(大11)の新潟商は、北陸大会を制したあと、投手の加藤昌助主将らが高熱など体調不良を訴えた。部員11人のチームで、学校長が「大黒柱不在では試合はできない」として、棄権を決めた。大会は1校減の16校で行われた。2005年(平17)の明徳義塾は抽選会を終えたあと、匿名の投書から不祥事が発覚。2、3年生部員6人の1年生に対する暴力行為、11人の喫煙があり、報告も遅れて出場辞退を余儀なくされた。準優勝の高知が代わって出場した。


(2018年4月6日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)