もう34年がたつ。福井商主将だった坪井久晃の記憶は、さすがに、はっきりしていない。

坪井 宣誓文を自由に考えてきて下さい、とは言われなかったのかな。んー、そこは曖昧なんです。「書いてこい」と言われて、何か新しく文章を考えないといけないと思ったんです。

今となっては笑い話だろう。1984年(昭59)8月6日の抽選会。予備抽選で1番を引き、選手宣誓の大役が回ってきた。目立てると喜んだのもつかの間、大会関係者から、翌日の予行演習に宣誓文の草稿を持ってくるよう言われた。後々、考えれば、単なる恒例の事前チェックだったのかも知れない。だが、福井商の面々は、それまでの「スポーツマンシップにのっとり」という定番は通じない、と思い込んだ。

坪井 ある田舎の野球部は、そう解釈しちゃったわけです。勘違いというか。これは大変なことになったと。ははは。

宿舎に戻ると、宣誓文を考える作業が始まった。一室に監督の北野、部長の松田、部員が集まり、アイデアを出し合った。といっても、高校生のことだ。

坪井 文面を考えるといったって、なかなかまとまらない。僕らで言葉、キーワードを出し合って、最終的には部長さんが校正、編集してくれました。OBからもアドバイスをもらったんじゃないでしょうか。

唯一、部員たちがこだわったのが「炎」の一語だった。ユニホームの左袖に縫いつけられた炎のエンブレムが、福井商野球部の代名詞だからだ。そこで「若人の夢を炎と燃やし」となった。翌朝、坪井は部長の松田から「これで行こう」と草稿を手渡された。第一印象は「長い」だった。

坪井 今と比べたら、むちゃくちゃ短いですよ。今の人はすごいと思います。当時は、いつもと違う。長いなと。でも、これでやるしかないなと。

計100文字足らず。近年と比べたらずっと短いが、坪井の言うとおりだった。予行演習の時に草稿を提出すると、大会関係者からも「短くするかも知れない」と言われた。このことからも、大会側は宣誓文を自由に考えさせるつもりはなかったことがうかがえる。今回の連載にあたり、主催の朝日新聞社に問い合わせた。担当者の記憶にある限り、昔から予行演習の際に草稿の提出を求めているという。「不適切な言葉遣いがあった場合、修正を求めることがあるかも知れない」とのこと。やはり、坪井が言われた「紙に書いて来て」とは、単なる事前チェックだった可能性が高い。

ともあれ、リハーサルは無事に終わった。大会側も「これで行こう」と原案のまま了承。後は翌日の開会式に向けて練習するのみだった。テレビ番組「熱闘甲子園」のカメラが回る中、部員みんなで「声が響く」と宿舎の風呂場に行き、上半身裸で3回、練習した。

坪井 頭の中でブツブツ。寝る前も、朝起きても、ずっと。負担はなかったです。控えなんで。試合はメンバーに任せて。そこは集中できました(笑い)。

こうして、開会式当日を迎えた。ただ、画期的な選手宣誓が誕生するには、坪井自身のこだわりも必要だった。(敬称略=つづく)

【古川真弥】

(2018年4月15日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)