福井商の宣誓文は、部員、監督、部長、さらに恐らくOBの意見も踏まえ、完成した。「スポーツマン精神にのっとり」といった紋切り型とは違う、オリジナルだった。大会側の了承も得て、後は本番を迎えるだけ。その時、主将の坪井には心に決めたことがあった。

坪井 絶叫するのは、やめようと。当時を知らない人が見たら「何だ」と思うかも知れませんが、僕らが子供の頃は絶叫するのが当たり前だったんです。

シンプルな一文を大声で張り上げる慣習を捨てる。実は、お手本があった。

坪井 中学の時、熊本の学校が宣誓したんですが、絶叫じゃなかった。たまたま(テレビで)見ていて、新鮮で。それが頭に残っていて、僕もやろうと。

決して、宣誓文が長くなったから絶叫をやめたわけではない。ただ、結果的に、はまった。従来より長い宣誓文を語り掛けるように発したことで、聞く人に、かつてない印象を与えた。

ところで、坪井が見た「熊本の学校」とは、80年夏の第62回大会での熊本工主将・山田の宣誓だ。熊本日日新聞(80年8月8日夕刊)は次のように報じた。

「一言、一言はっきり発音した立派な宣誓だった」

中学2年生だった坪井の記憶は正しく、山田は絶叫しなかった。記事は続く。

「伏線がある。前日のリハーサルでは昭和五十五年を五十四年と言い違えた。これで『言葉がはっきり聞こえるように“間”を取るように心掛けました』」

最後のカギ括弧は、山田のコメントだ。ちなみに、熊本工には前ロッテ監督の伊東勤がいた。伊東も「(山田は)滑舌が良くなかった」と記憶している。

新しい文章を考えないといけないと、福井商ナインが勘違いしただけではない。熊本工・山田が絶叫しなかった。その宣誓を坪井が見ていた。何より、坪井が予備抽選で1番を引いた。あらゆる偶然が重なり、坪井の宣誓は生まれた。開会式直後の初戦で桐蔭学園に敗れ、すぐに福井に帰ったが(坪井は本抽選でも「1番」に当たる開幕試合を引き当てた)、反響は大きかった。地元メディアだけでなく、大阪のラジオや、新聞、雑誌の取材が続いた。

最大の“功績”は、後の宣誓に与えた影響だ。翌85年は銚子商主将・今津。予行演習では、同校が11年前の74年にも宣誓して優勝した験を担ぎ、その時と全く同じく「スポーツマン精神にのっとり」と絶叫した。ところが、大会本部から「マイクがある。もう少し小さい声で」、「短い。型どおり過ぎ。自分の気持ちを加えて」と注文が入った。そこで「僕たちは(中略)全国3791校の仲間たちの代表として、この甲子園球場にやってきました」で始まる宣誓に差し替えた。以来、自分の言葉で語るという宣誓の流れが出来た。

坪井の人生にも、宣誓の経験は影響を与えた。

坪井 もう悪いこと出来ないな、と。ははは。

これは冗談としても、初対面の人からも「ああ、あの」と言われた。金沢大で野球を続けたが、推薦入試でプラスになったのは役得。50歳を超えた今は仕事の傍ら、知的障がい者のソフトボール福井代表を手伝う。

坪井 今までずっと自分のために野球をやってきたのは、これをするためだったのかなと思います。

一野球人の血肉となった、さまざまな経験。その1つに、あの甲子園での宣誓も含まれている。(敬称略=つづく)

【古川真弥】

(2018年4月16日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)