今では見慣れた光景となった、ベンチから声援を送る女子マネジャーの姿。だが94年まで甲子園のベンチは“女人禁制”だった。95年に柳川(福岡)の女性部長が初めてベンチ入りすると、翌96年に記録員として女子部員の参加が認められた。第1号となった東筑(福岡)の林田(旧姓三井)由佳子さん(39)に当時を振り返ってもらった。

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2つ結びの長い髪をなびかせ、白いブラウスの女子生徒が笑顔で勝利の輪に加わった。96年8月8日。第78回全国高校野球選手権初日の第3試合(東筑-盛岡大付戦)で、林田さんは甲子園のベンチに入った女子マネ1号になった。「終始、夢見心地でした。球場もベンチも大きいなと思ったことを覚えています」。泥だらけの選手たちとの一体感は忘れられない。

高校球界に画期的な改革が起きたのは同年5月の運営委員会だった。春夏の甲子園大会でベンチ入りできるのは責任教師、監督、登録選手に限られていたが、男女問わず、記録専任者1人の追加が許可された。当時の牧野直隆・日本高野連会長の「本大会でも認めてほしいという声に応えた。遅ればせながら時代に合わせた」という談話が報じられている。地方大会では既に44都道府県で、女子のベンチ入りが認められていた。

7月の福岡大会では、東筑の記録員は男子部員が務めていた。3年生で1人だけメンバー登録から漏れた選手だった。「甲子園では私がスコアラーとしてベンチに入るよう、彼が申し出てくれました。最後の夏に選手たちのそばでスコアを付けさせてもらえる喜びと、ありがたい気持ちでいっぱいでした」。入部当時、2つ上に2人の女子マネジャーがいた。先輩から教わったスコアブックの付け方。これ以上ない舞台で、貢献できる時が来た。

開幕初日、一塁側ベンチ左端で試合を見守った。9回表、エース石田が最後の打者を三ゴロに打ち取ると部長とがっちり握手。完封でチーム18年ぶりの甲子園勝利を呼んだ“勝利の女神”として報じられた。この夏、女子マネのベンチ入りは9校あった。「(第1号は)たまたまクジ引きで決められた日程の巡り合わせ」。取材を受けることに戸惑いもあった。主役は選手。「最高にうれしい」と言いながら、脇役に徹した。

08年センバツの甲子園練習では、華陵(山口)の女子部員が初めてユニホーム姿でタイムキーパーを務めて話題に。16年夏は大分の女子マネジャーの練習参加が制止されて物議を醸し、女子マネの練習参加が条件付きで認められるまでになった。同じ部員として、女子ができることは少しずつ増えてきている。

東筑は今春センバツも開幕戦に登場した。母校は変わらず応援しているし、数年に1度は、同期生たちと監督を囲んで食事もする。「マネジャーとしての3年間は、大切な仲間と好きな野球に携わることができた本当に楽しい時間でした。苦労したことなど今となってはほとんど思い出せません」。2回戦で倉敷工に惜敗し、涙がこぼれた。

背番号のない17番目のチームメートとして、グラウンドを見つめたあの日-。林田さんが開いた新たな扉は、聖地の歴史の1ページとして未来へ刻まれていく。【鎌田良美】

(2018年4月20日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)