「プロアマの断絶」「プロアマ問題」「プロアマの雪解け」…。

教育の一環と位置付けられる高校野球は、長くプロ野球界と一線を画してきた。プロとアマが断絶した歴史は、一般的に1961年の柳川事件がきっかけといわれる。プロ側が、前年まで社会人と締結していたプロ退団者の受け入れ人数などについての協約の更新を拒否。無協約状態になった直後に中日が柳川福三外野手(日本生命)をシーズン中に強引に引き抜いた。

プロとの断絶を表明した社会人に、学生野球側も同調。強引なスカウト活動を理由に、高校野球も翌62年からプロ野球OBの指導者受け入れやプロ野球関係者との接触を一切禁じた。

「プロVS社会人」の事件が、なぜ高校野球に波及したのか。さまざまな伏線が複雑に絡んだ時代だった。

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時は6年前の55年にさかのぼる。

当時の日本高野連副会長(のちの会長)佐伯達夫(享年87)は、“佐伯天皇”と称された重鎮だった。ドラフト制度が65年に導入される10年前の自由競争時代、プロ側の過度な入団勧誘に頭を悩ませていた。

かつて佐伯とともに日本高野連に在籍した田名部和裕理事(72)は「プロとアマは戦後まもなくは、あまり問題はなかったんです。一番は、プロ野球の2リーグ分裂です。昭和24年(49年)に8球団から一気に15球団になった。ここでプロは選手が足らなくなったので、まずは球団同士の取り合いです。社会人野球からの選手獲得、6大学の選手や高校生と、なりふり構わずになったんです」。

プロ側にとっては選手不足。そんな時代背景が、高校野球界でも過度な選手獲得競争を生み出した。

55年、高校の日本選抜は初のハワイ遠征を行った。17人中、のちに11人がプロ入りする好メンバーで7勝3敗と勝ち越した。佐伯は健闘を喜びつつ「プロ野球のスカウトにつけねらわれ、面倒な問題を起こすもとにもなった」(佐伯達夫自伝=ベースボール・マガジン社)と後述している。

8月20日の結団式の前日、佐伯が上京するとチーム宿舎だった野球会館の一室をプロのスカウトが借り切っていた。

「選手たちを個々に会館の食堂に連れ込んで、飯を食べさせたり、さかんにサービスをし、入団を勧誘している光景が目に映った。東京駅に着いた選手の父親をプロ球団の車が待ち受けている。迎えの車で歓待の場所へ連れて行く。1つの球団がやれば他の球団も負けてはおられないということで活発に動く」(同)

さらに帰国後も、見過ごせない事態が続いた。

「出発前は1人当たり1日1ドル半の割りで30ドル渡していたはずが、選手の中には出発前に渡したドルより多額のドルをポケットに入れていたものがいた。土産物などを買った後で出発前より多額のドルを持っているのはどう考えてもおかしい。スカウトが一部の選手のポケットに闇ドルをねじ込んでいた」(同)

帰国後の9月12日、選手たちを集めて話し合いの機会をつくった。「諸君が本当にプロで成功し、あとは遊んでいても食えるという立派な選手になれば言うことはないが、10年たった時に何も残ってなかったというのはあまりにさびしい。社会はそう安易に受け入れてくれない。プロへやりたい親の気持ちを考えてみると、自分の子を昔の女郎のように金で売って自分が楽をしようというのではないかと考えられる」(同)。

同16日には、プロとの接触についての注意書「佐伯通達」と呼ばれる文書を加盟全校に送った。当時の日本高野連の事実上トップが送付した文書は、スカウト活動の自粛に一定の効果をもたらしたが、厳しすぎると議論を呼ぶことになった。(敬称略=つづく)【前田祐輔】


◆佐伯達夫(さえき・たつお)1892年(明25)12月17日、兵庫生まれ。旧制市岡中(現市岡)から早大に進学し、三塁手として野球部に所属。20年の第6回全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)から役員として参画し、46年に全国中等学校野球連盟(現日本高野連)副会長に就任。67年から80年まで第3代日本高野連会長を務めた。80年3月22日、死去。81年に野球殿堂入りした。

(2018年4月21日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)