日本高野連と朝日新聞社発行の「全国高等学校野球選手権大会70年史」が伝える第51回大会の章に、2枚の写真が並ぶ。三沢(青森)のエース太田と松山商(愛媛)のエース井上明。太田は「白いユニホームは土によごれたが、剛球は回を追ってさえた」と記され、井上は「ピンチになっても冷静さを失わず、絶妙の制球力をくずさなかった」と伝える。対照的な両エースは、ともに1歩も引かず、スコアボードに18個ずつゼロを並べた。

太田 途中からは松山商と戦ってないですもの。井上と戦ってました。あいつよりも絶対に先に点は取られないって。

井上 ライバルより、同志。お互い頑張ろうという気持ちで投げていた。

回を追うごとに、井上は太田の姿に目を見張った。

井上 ぼくが太田を本当にすごいなと思ったのは、夏の大会でずっと投げ続けてきて、疲れた中で自分の体を最高の状態に持ってきたことです。開会式で太田を見たとき、そんなに体の大きさは感じなかった。それが自分が打席に立ってマウンドの太田を見たとき、すごく大きく見えた。ユニホームももうかなり汚れていたんだけど、かっこいいなと思えた。独特の雰囲気があった。突出した投手でした。

17歳の至高の投球を、5万5000の大観衆は見ていたのだ。

太田 どこまでも行くつもりで投げてましたから。最初の9回より延長に入ってからは、球がいってましたから。夏の予選は、負けられない怖さと戦いながら投げていた。それに比べたら、あのときの延長戦の9回なんて、打たれるとか全く頭にないですもの。また1人、また1イニングってその積み重ねがずっと続いていったから。野球人生のベストピッチじゃないかな。

史上初の決勝引き分け再試合となった翌19日。前日262球を投げた太田の体は“金縛り状態”だった。母タマラの手編みの肩当てをつけて寝た右肩は上がらず、洗顔にも苦労した。朝食の箸は手から滑り落ちた。連日500球を投げ込んできた太田でさえ、初めての経験だった。

太田 きょう投げられるのかなと。まずマウンドに立てるのかと思うくらいひどい状態でした。甲子園に行って体操して、だいぶほぐれてきたなと思ったけど、試合前のピッチングでいつもならミットにバーンっていうのに、見たらボールがまだミットについていないもの。これはやばいなと。やっぱり、初回に樋野に2ラン打たれました。

井上も疲労困憊(こんぱい)だった。いきなり2点の援護をもらったが、初回裏に2死一、二塁のピンチを招き、ついに中村哲にマウンドを譲った。松山商のエース候補だった左腕の直球、カーブに要所を抑えられ、三沢は2-4で敗れた。太田の準々決勝から4日連続の力投は、優勝という結果では実らなかった。それでもエースに、涙はなかった。

太田 野球やって負けて、これだけさわやかな、悔しさのない敗戦って、これが最初で最後。負けたとか勝ったとかそういう次元じゃなくて、とりあえず終わったと。よく頑張った、これ以上はもう何も出来ません、と。

松山商の校歌を聞きながら見上げた空の青さが、心に染みた。夏の名残の空を、太田はただ見つめていた。(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年8月26日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)